安岡 (下関市)
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安岡(やすおか)とは、山口県下関市の安岡地区(下関市役所支所設置条例で示された下関市役所安岡支所の所管する区域)を指す地域名称。
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[編集] 地域概要
安岡地区は、下関中心市街地から北へ約10km、下関市の西方に位置し、響灘に面する田園・漁村地帯である。面積は16.4平方km、人口は2005年時点で約1万5千人。域内を南北にJR山陰本線と国道191号が通り、東方へは山口県道247号安岡港長府線が伸びている。JR山陰本線の安岡駅が地区のほぼ中心にあるほか、福江駅が北部の福江地区に置かれている。
[編集] 地理・地勢
安岡の西は響灘に面している。東方には山地が広がり、竜王山(りゅうおうざん、614m)や鋤先山(すきざきやま、583m)がある。特に鋤先山は、山頂を鋤で削り取ったような形状が印象的なため、安岡のシンボルとなっている。
響灘と山地の間は平地が広がっており、その多くは台地である。安岡地区の主な河川は、北から馬渡川・横野川・友田川・梶栗川があるが、平野はこれら河川の下流域に形成されているのみである。
安岡地区を代表する河川が友田川である。友田川は安岡地区東北部の山地にある深坂(みさか)に源流があり、深坂に築造されている農業用水用のため池を経て南方へ流れる。深坂から南方へ流れ出た友田川は、平地部に出たところで流路を西方へ変える。西方へ流下した友田川は、沖積平野を形成しながら響灘へ流れ込む。沖積平野の下流域は、しばしば洪水によって浸水被害にあう。
友田川などに運ばれた土砂によって、安岡地区の沿岸には砂浜が形成されている。友田川河口の南には安岡海水浴場が設けられている。また、北部の福江からその南の横野にかけて、沿岸部に砂碓が発達しており、響灘に突き出た形状の観音崎まで直線上に伸びている。
北部の福江の沖合には、久留見瀬(くるみせ)と呼ばれる浅瀬があり、海草や貝の採取が行われていたが、船舶の座礁が多発したため、現在では灯台が設置されている。
[編集] 地域区分
安岡地区は、北から福江、横野、安岡、安岡浦、蒲生野、富任の概ね6地域に大きく分けられる。
福江(ふくえ)は、安岡地区の最北部にあり、北隣の吉見地区と接している。ほぼ全域が農村地帯であるが、響灘沿岸沿いを通る国道191号沿いにはドライブインなどが立ち並ぶ。中心部には福江駅や福江八幡宮が所在する。
横野(よこの)は、福江の南に位置し、概ね国道191号付近から西側の響灘に面した地域である。福江と同様、ほとんどが農村地帯である。中心部に横野八幡宮が所在するほかは、国道191号沿いに農協などが立ち並ぶ。
安岡(やすおか)は、安岡地区の中心部に当たる。北部は福江・横野と同様に農村地帯が広がるが、南部は住宅地や商業施設・工場が立ち並んでいる。北部には、安岡八幡宮のほか、下関市立安岡小学校、下関市立安岡中学校が所在する。南部には、下関市役所安岡支所、安岡駅などが所在する。域内のほぼ中央には友田川が東西に流れている。友田川中流域にはホタルが棲息しており、住民による保護が行われている。
安岡浦(やすおかうら)は、横野の南・安岡の西にあたり、響灘に面した漁村である。地域の中心は安岡漁港であり、住民の多くは漁師である。安岡の他地域からは「浜」(はま)と呼ばれることもある。
蒲生野(かもの)は、安岡地区の東部にあたる。そのほとんどが農村地帯である。下関球場を含む下関北運動公園がある。
富任(とみとう)は、安岡地区の南部にあたる。富任の南部は梶栗(かじくり)といい、富任と別地域とすることもある。富任全域はかつては農村地帯だったが、第二次世界大戦後は住宅や工場が多数立ち並ぶようになった。響灘沿いには長大な松林があったが、戦後の開発で伐採され、大きく景観を変えている。域内には富任八幡宮、山口県立下関工業高等学校、山口県立下関養護学校、下関園芸センターなどが所在する。
[編集] 地名
安岡の地名の由来については、神功皇后が三韓征伐の際に海べりの岡(現在の迫の宮:安岡八幡宮の岡)に立ち寄り、そこで安らいだことから「安らが岡」→「安岡」とする俗説があるが、江戸時代以前の文献には一切見られず、この伝承は明治・大正期に作られた偽説と考えられている。
太古、安岡の低地域は海だったが、友田川の運ぶ土砂が堆積して、迫の宮の岡から横野方面へいくつもの洲、言い換えると「八洲(やす)」ができた。このことから「ヤスオカ」の地名が発生した、という説が現時点で有力とされている。
[編集] 歴史
安岡の歴史は、横野遺跡にて旧石器が出土していることから、旧石器時代までさかのぼると考えられている。
人間活動の痕跡が増えてくるのは縄文時代からで、安岡地区では、紫野遺跡(むらさきの - 、黒曜石の石鏃・土器が出土)、潮待遺跡(しょうまち - 、貝塚・石器・土器が出土)、神田遺跡(かんだ - 、貝塚・土器・集落趾が出土)などの遺跡が発見されている。
弥生時代からは遺跡の数が飛躍的に増加する。この時代の安岡は関門地域の交通の要衝だったと推測されている。関門海峡は潮流が速いため、古代の航海技術では航行することができなかったが、この当時、安岡南方の綾羅木川流域に大きな入り江があり、短距離で東方の瀬戸内海方面へ連絡することができた。そのため、安岡および綾羅木が響灘 - 瀬戸内海交通の玄関港となっていたと考えられている。安岡地区・綾羅木地区に所在する当時の遺跡が、周辺の他地域に比べて圧倒的に多いことがその論拠となっている。さらに当時の梶栗遺跡(かじくり - )からは石棺・碧玉管玉・多紐細文鏡・細型銅剣・人物埋葬趾が出土しており、この地域の王権が安岡地区に所在していたとする意見も出されている。
古墳時代も弥生時代と同様に、遺跡が安岡地区と綾羅木地区に集中しており、当時、関門地域の中心地であったと推測されている。安岡地区に築造されている前方後円墳には、観音崎古墳・天神古墳・上の山古墳・仁馬山古墳がある。このほか、畑代古墳・長仙山古墳・八貫古墳などの円墳も築かれている。八貫古墳から出土した金環は、畿内の伝天皇陵の他から出土しておらず、この地域の首長が大きな権力を持っていたとの推測もなされている。
8世紀に律令制が布かれるようになると、安岡は長門国豊浦郡に編成された。以後、平安時代を通して安岡地区に関する史料がほとんど皆無であるため、この時期の様子はあまり判明していない。平安末期の治承・寿永の乱の際に長門を訪れた源範頼によって建てられたという伝承を持つ八幡宮が下関周辺には多数存在し、安岡地区の安岡八幡宮、福江八幡宮も同様の由緒を持っている。
鎌倉時代、元寇の際に設置された長門探題の所在地は不明とされているが、安岡地区の富任に所在したとする説がある。富任には「三太屋敷跡」と呼ばれる武家屋敷跡があり、長門守護代三井氏の屋敷跡とされている。台地上に位置し、響灘を一望できる立地にある。1276年に北条宗頼が長門守護(長門探題)として赴任するとほぼ同時に、三井氏は豊浦郡室津へ移動していることから、北条宗頼が入居したのは「三太屋敷」だったと推測する説がある。
江戸時代の安岡は、豊浦藩の支配下に置かれた。この時代の安岡は港を中心に繁栄し、漁港としてだけでなく商港としてもさかえた。大きな商船を数隻保有し、交易業に従事する者もいた。
明治時代に入ると、安岡地区を単位として豊西中村が置かれた。1910年(明治43)7月1日には豊西中村から安岡村へ改称した。安岡村は1925年(大正14) 2月11日、安岡町となり、1937年(昭和12)11月15日に下関市へ編入合併した。
戦後になると、安岡は下関市のベッドタウンとして発展した。また、下関市街や北九州市へ魚介類や野菜を供給する近郊産業地ともなっている。
[編集] 参考文献
- やすおか史誌編輯委員会編、『やすおか史誌』、下関市安岡合併五十周年実行委員会、1990年。
- 安岡郷土史同好会編、『下関市安岡 歴史探訪と観光案内図』、安岡ふるさとまちづくり事業推進協議会、1999年。
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