安井算哲
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安井算哲(やすい さんてつ、天正18年(1590年) - 慶安5年(1652年)1月9日)は、囲碁の棋士で、家元安井家の始祖。元の名は六蔵。本因坊算砂、中村道碩らとともに徳川幕府より俸録を受け、後に弟子の算知を養子として跡目にしたのが、家元としての安井家となった。実子の2世安井算哲(渋川春海)は、碁方を離れて天文方に転じたが、これと区別して古算哲とも呼ばれる。
[編集] 生涯
祇園社の被官であり(「舜旧記」)、久宝寺の者とも記される(「鹿苑日録」)のは大阪久宝寺(八尾市)の出であったと思われる。慶長5年(1600年)11歳の時、榊原康政を介して徳川家康に伏見城で召し出され、扶持を与えられる。また本因坊算砂、林利玄らとともに碁会などに招かれていた。慶長13年(1608年)、剃髪して算哲と名乗る。
慶長17年(1612年)には、道碩50石に次ぐ30石の俸録を受けた。寛永3年(1626年)の二条城徳川秀忠御前で中村道碩と対局、先番3目勝。それ以前にも御前対局は行われていたが、この碁が御城碁の始めと言われている。同6年(1629年)には江戸城で道碩と対局。寛永7年(1630年)に道碩が没した後の正保元年(1644年)、本因坊算悦、井上因碩(玄覚)、算哲らに寺社奉行より道碩後継の碁打衆頭領の地位の詮議がなされ、算哲は自薦するも受け入れられず、算悦、因碩は辞退したため、空位のままとなった(碁所詮議、「伝信録」)。
中村道碩と100数十局の対局があり、道碩40番勝ち越しと伝えられるが、その戦い振りは道碩をして「碁に勝っても命は取られる」と言わしめた。寛永3年の二条城での対局は算哲の傑作とされる。また二条城での対戦で、1手目を辺(右辺星下)に打った局も知られている。棋力は名人、上手の間と言われた。