宇宙のインフレーション
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宇宙のインフレーション(うちゅうのいんふれーしょん、cosmic inflation)とは1981年にアラン・グース[1]や佐藤勝彦[2]によって提唱された、ビッグバン理論を補完する初期宇宙の進化モデルである。インフレーション理論・インフレーション宇宙論などとも呼ばれる。
インフレーション理論では、宇宙は誕生直後の10-36秒後から10-34秒後までの間に、エネルギーの高い真空(偽の真空)から低い真空(真の真空)に相転移し、この過程で負の圧力を持つ偽の真空のエネルギー密度によって引き起こされた指数関数的な膨張(インフレーション)の時期を経たとする。
この膨張の時間発展は正の宇宙定数を持つド・ジッター宇宙と同様のものである。この急激な膨張の直接の結果として、現在我々から観測可能な宇宙全体は因果関係で結び付いた (causally-connected) 小さな領域から始まったこととなる。この微小な領域の中に存在した量子ゆらぎが宇宙サイズにまで引き伸ばされ、現在の宇宙に存在する構造が成長する種となった。このインフレーションに関与する粒子は一般にインフラトンと呼ばれる。
この理論の名前は提唱者のアラン・グースが、1970年代終わりにアメリカで起きたインフレーションをユーモア交じりに引用して名付けたものである。
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[編集] 動機
インフレーションによって、1970年代に指摘されていたビッグバン宇宙論のいくつかの問題点が解決される。これらの問題の中には、観測される宇宙が極めて平坦であること(平坦性問題)、因果律的に結び付きを持たないほど大きなスケールにわたって宇宙が極めて一様であること(地平線問題)、多くの大統一理論 (GUT) のモデルで存在が予言されている空間の位相欠陥が全く観測されないこと(モノポール問題)などが含まれている。インフレーション理論の標準的モデルでは、宇宙が幾何学的に平坦であることや初期宇宙の原始密度ゆらぎがスケール不変であることを予言している。これらの予言は(WMAP などによる)宇宙マイクロ波背景放射の高精度の観測結果や(スローンデジタルスカイサーベイなどの)銀河サーベイ観測で得られた銀河分布のデータによって非常に良い精度で確かめられている。
インフレーション理論の最も単純なモデルは約1015GeVという大統一理論のエネルギー領域を扱うため、インフレーション理論は GUT スケールやそれに近い高エネルギー領域を扱う素粒子物理学にとっても重要である。1980年代には、インフレーションの元となる真空のエネルギーを生み出す場を大統一理論が予言する特定の場と関連付けたり、実際の宇宙の観測結果を用いて大統一理論のモデルに制限を与えようとする試みが盛んに行なわれた。これらの研究はほとんど成果を挙げることはなく、インフレーションを起こす真空のエネルギー密度を生み出すような粒子や場(インフラトン)の正体については謎のままである。インフレーション理論は主として、高温の初期宇宙の初期条件について理論が詳細に予言する部分のみが理解されており、その背後にある素粒子物理学についてはアドホックなモデル化が行なわれているに留まっている。
インフレーションの時代の後には、初期宇宙の高温の放射を生み出した再加熱 (reheating) の時代が存在したはずである。この再加熱の原因についてはほとんど分かっていないが、インフレーションの終了期にインフラトンが他の粒子に崩壊する過程が共鳴的に起きたことで再加熱が起きたとするパラメータ共振モデルなどが提唱されている。
最近の宇宙マイクロ波背景放射の観測では、様々な競合理論よりもインフレーション理論の方をより強く支持する結果が得られている [3]。インフレーションモデルに残されている理論的問題点の一つは、インフレーションを引き起こす場のポテンシャルを微調整しなければならないという点である。もしインフラトンが大きな真空のエネルギーを持つとすれば、その質量は小さく(またそのコンプトン波長は大きく)なければならない。しかし高エネルギー領域の物理学では数多くのスカラー場が存在すると考えられており、超弦理論に限っても、インフラトンやインフラトン場の候補となる粒子やスカラー場は数多く存在している。
[編集] 機構
インフレーション理論が最初に提唱されて以来25年以上にわたって、インフレーションのモデルは理論的な困難を解消し、宇宙論的観測の結果と適合するように発展してきた。今日でも宇宙論研究者と素粒子物理学者はインフレーションについて新たなアプローチを提案し続けている。しかしこれまでに提唱されたモデルには全て、フリードマン方程式の解として指数関数的な膨張をする時代が共通して存在する(例外として、クインテセンスによるインフレーションを考えるモデルでは膨張は多項式的膨張になる)。熱平衡状態にある宇宙について基本的な仮定を用いるだけで、ほぼ全てのモデルでインフレーションの枠組みが導かれる。実際、初期宇宙に関して起こりうる全ての宇宙論的シナリオを集めた場合、インフレーション時代を経ないシナリオはその中でごくわずかである。以下ではこれまでに提唱された最もよく知られたインフレーションモデルの歴史的発展について述べる。
[編集] 古いインフレーション
アラン・グースによって提唱された元々のインフレーションモデル[1]では、誕生直後の宇宙は偽の真空と呼ばれる状態にあったとされる。偽の真空の状態にある宇宙は厳密にド・ジッター宇宙の膨張則に従う。グースのモデルでは、インフレーションの終わった領域が真の真空の「泡」の核生成として宇宙の中に作られる一方、残りの領域ではインフレーションが続く。このような泡同士が衝突すると、泡の壁が持つ莫大なエネルギーが粒子に変換され、これがビッグバン初期宇宙に存在する高温の放射や物質粒子となる。この過程は再加熱と呼ばれる。インフレーションが続いている巨大な背景領域では我々の宇宙と同様の新しい宇宙が絶えず生成され続ける。ここで、一般に重力相互作用のエネルギーは負であるため、正のエネルギーを持つ宇宙が新しく生成されてもエネルギー保存則は破られない。このようにして熱力学第一法則(エネルギー保存則)と熱力学第二法則(時間の矢の問題)の両方がうまく回避される。グースはこのことからインフレーション宇宙を「究極の無料ランチ」であると形容している[3]。
しかし、このグースのモデルは以下の点でうまくいかない。すなわち、標準ビッグバン理論の問題を解決できるほど十分にインフレーションが進行することを保証するためには、真の真空の核生成率は非常に小さくなければならないが、核生成率が小さいと泡同士の衝突が起こらず、再加熱過程が働かないことになる。なぜなら泡の間にある(インフレーションが依然として進行している)空間は非常に速く膨張するため、泡同士の距離は泡自身の成長速度よりも速く広がってしまうからである。よって、偽の真空の崩壊によって放出されるエネルギーは全て泡の壁の運動エネルギーとして使われる一方、高温のビッグバンに必要なエネルギーが泡の衝突によって全く供給されず、いつまで経っても火の玉宇宙の時代に移行しないことになる。この問題は「華麗な退場の問題 (graceful exit problem)」と呼ばれ、グースの元々のモデルは現在では古いインフレーション (old inflation) と呼ばれる。
[編集] ゆっくり転がるインフレーション
グースの論文が発表された翌年、アンドレイ・リンデ[4]やアンドレアス・アルブレヒトとポール・スタインハート[5]のグループはそれぞれ独立に、新しいインフレーション (new inflation) またはゆっくり転がるインフレーション (slow-roll inflation) と呼ばれるモデルを提唱した。古いインフレーションでは、インフレーションの元となるスカラー場があるポテンシャルの極小値に停留した状態からトンネル効果でポテンシャル障壁を越えて転がり落ちる過程としてインフレーションがモデル化されるが、新しいインフレーションモデルでは、古いインフレーションに比べてポテンシャルの形が極小を持たないほぼ平坦な形状になっており、このポテンシャルの上をスカラー場がゆっくりと転がり落ちるとされている。このモデルでは宇宙の膨張は近似的にド・ジッター宇宙になるだけで、ハッブル・パラメータは実際には減少する、すなわち膨張は減速する。古いインフレーションのド・ジッター宇宙では偽の真空の中に生まれるゆらぎのスペクトルは厳密にスケール不変になるが、新しいインフレーションでは近似的にスケール不変になるだけである[6]。このことはすなわち、インフレーション中のポテンシャルに関する情報を、宇宙マイクロ波背景放射のゆらぎのスペクトル指数を測定することで原理的に引き出せることを意味している。ゆっくり転がるインフレーションでは、インフラトンのポテンシャルがほぼ平坦な領域の終端まで達するとインフレーションは終わり、ここからポテンシャルの傾きは(エネルギー密度に対して)増加して、転がり落ちる速度も増加する。これがこのシナリオでの再加熱過程で、ポテンシャルのエネルギー密度の値に応じてインフラトンとの相互作用によって火の玉宇宙の輻射や粒子が生成される。
新しいインフレーションは一般に永遠に続く。スカラー場は古典的にはポテンシャルを転がり落ちるだけだが、量子ゆらぎによって時にはポテンシャルの高い位置に再び戻される場合もある。これらの領域はインフラトンのポテンシャルエネルギーが低い領域に比べて非常に速く膨張する。従って、いくつかの領域ではインフレーションが終わっても、インフレーションが続いている領域は指数関数的に成長するため、インフレーションが起きている領域の方が常に宇宙の大部分を占めることになる。このような、ある領域でインフレーションが終わっても量子力学的ゆらぎのために宇宙の大部分でインフレーションが持続するという定常状態は永久インフレーション (eternal inflation) またはカオス的インフレーション (chaotic inflation) と呼ばれ、アンドレイ・リンデによって最初に提唱された[7] [8]。永久インフレーションが過去においても永遠かどうか、すなわち宇宙は無限の過去から続いているのかどうかについては疑わしいとする意見が多い[9] [10] [11]が、異論もある[12]。そのため、このモデルが宇宙の初期条件の問題を解決できるかどうかは未解決である。無限の過去から続く永久インフレーションというモデルは、主流派宇宙論における定常宇宙論であると見ることもできる[13] [4]。なぜならこのモデルは完全宇宙原理を満たすからである。
新しいインフレーションの拡張として、ハイブリッド・インフレーション (hybrid inflation) と呼ばれる別のインフレーションモデルもある。このモデルでは新たなスカラー場を導入し、ある一つのスカラー場が通常のゆっくり転がるインフレーションに対応し、別の場がインフレーションの終了を引き起こす。すなわち、インフレーションが十分長く続くと、第二の場が非常に低いエネルギー状態に落ち込む確率が増え、これによってインフレーションが終わるというものである[14]。
[編集] その他のモデル
超弦理論や量子重力理論の文脈で示唆されているよく知られたアイデアの一つに、宇宙には我々が経験している3次元よりももっと多くの空間次元が存在するが、宇宙は3つの空間次元のみでインフレーションを起こした、とするものがある。この理論は string gas cosmology と呼ばれ、ロバート・ブランデンバーガーとカムラン・ヴァッファによって提唱されている。この理論では、衝突する弦のトポロジー的な性質によって我々の宇宙には3つの大きな拡がりを持つ次元が存在することになったことを示唆している。しかしこの理論の実用性については多くの疑問が投げかけられている。
その他、ブレーン宇宙論やエキピロティック宇宙論、サイクリック宇宙論、光速可変理論などがインフレーション理論の競合理論または発展理論として考えられている。
[編集] 観測
観測の分野では現在、宇宙マイクロ波背景放射の観測精度を向上させることでインフレーションについてより多くの情報が得られるようになることが期待されている。特に、背景放射の偏光を高い精度で測定することによって、最も単純なモデルで予言されているインフレーションのエネルギースケールが正しいかどうかが明らかになる。また、原始ゆらぎのスペクトルを測定することで、我々の素朴なインフレーションモデルによって正しい原始ゆらぎが作れるかどうかが分かる。現状では、完全にスケール不変なスペクトルは最も単純なインフレーションモデルとは合わないと一般に考えられている(新しいインフレーションモデルではスペクトルに曲率が存在するため)。現在計画されているプランク衛星やクローバー計画、その他の地上からの宇宙マイクロ波背景放射観測実験でこういった測定が行なわれる予定である。2006年3月に発表された WMAP ミッションの観測データでは、インフレーション理論に対する最初の実験的検証結果が公表されている。WMAP の偏光データは最も単純なインフレーションモデルとよく一致している。
2006年現在、宇宙のインフレーション時代と現在の宇宙で観測されている加速膨張やダークエネルギーとの間に関係があるかどうか、もしあるならどのような関係なのかについては明らかになっていない。ダークエネルギー、特にクインテセンスによる加速膨張はインフレーションと多くの点で似ているが、現在の宇宙の加速膨張は10-12GeVというずっと低いエネルギーで起こっており、インフレーションのエネルギースケールとは少なくとも27桁も食い違っている。
[編集] 参考文献
- ↑ 1.0 1.1 A. H. Guth, "The Inflationary Universe: A Possible Solution to the Horizon and Flatness Problems", Phys. Rev. D 23, 347 (1981).
- ↑ K. Sato, "First-order phase transition of a vacuum and the expansion of the Universe", Monthly Notices of Royal Astronomical Society, 195, 467, (1981).
- ↑ A. H. Guth, "The Inflationary Universe", Perseus Books Group, (1998), ISBN 0201328402. ; アラン・H・グース、『なぜビッグバンは起こったか』, 早川書房, (1999), ISBN 4152082283.
- ↑ A. Linde, "A New Inflationary Universe Scenario: A Possible Solution Of The Horizon, Flatness, Homogeneity, Isotropy And Primordial Monopole Problems", Phys. Lett. B 108, 389 (1982).
- ↑ A. Albrecht and P. J. Steinhardt, "Cosmology For Grand Unified Theories With Radiatively Induced Symmetry Breaking," Phys. Rev. Lett. 48, 1220 (1982).
- ↑ J. M. Bardeen, P. J. Steinhardt and M. S. Turner, "Spontaneous Creation Of Almost Scale-Free Density Perturbations In An Inflationary Universe," Phys. Rev. D 28, 679 (1983).
- ↑ A. Linde, "Eternal chaotic inflation", Mod. Phys. Lett., A1, 81, (1986).
- ↑ A. Linde, "Eternally existing self-reproducing chaotic inflationary universe", Phys. Lett., B175, 395, (1986).
- ↑ A. Borde, A. Guth and A. Vilenkin, "Inflationary space-times are incomplete in past directions", Phys. Rev. Lett., 90, 151301, (2003).
- ↑ A. Borde, "Open and closed universes, initial singularities and inflation", Phys. Rev., D50, 3692, (1994).
- ↑ A. Borde and A. Vilenkin, "Eternal inflation and the initial singularity", Phys. Rev. Lett., 72, 3305, (1994).
- ↑ A. Linde, "Inflation and String Cosmology," eConf C040802 (2004) L024; J.Phys.Conf.Ser. 24 (2005) 151-160 (available from [1].
- ↑ Anthony Aguirre, Steven Gratton, "Steady-State Eternal Inflation", Phys.Rev., D65, 083507, (2002). [2]
- ↑ http://arxiv.org/abs/hep-ph/0101119
[編集] 外部リンク
- A. Linde, Particle Physics and Inflationary Cosmology (Harwood, Chur, Switzerland, 1990).
- A. Linde, "chaotic inflation"
- Was Cosmic Inflation The 'Bang' Of The Big Bang?, by Alan Guth, 1997
- An Introduction to Cosmological Inflation by Andrew Liddle, 1999
- update 2004 by Andrew Liddle
- hep-ph/0309238 Laura Covi: Status of observational cosmology and inflation
- hep-th/0311040 David H. Lyth: Which is the best inflation model?
- The Growth of Inflation Symmetry, December 2004
- Guth's logbook showing the original idea
- WMAP Bolsters Case for Cosmic Inflation, March 2006
- NASA March 2006 WMAP press release