大谷石
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大谷石(おおやいし)は浮石凝灰岩の一種。栃木県宇都宮市北西部の旧大谷町付近一帯で採掘される石。柔らかく加工がしやすいことから、古くから外壁や土蔵などの建材として使用されてきた。
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[編集] 成分
珪酸・第二酸化鉄・酸化アルミニウム・酸化マンガン・石灰・酸化マグネシウム・カリウム・ソーダなど
[編集] 成因
日本列島の大半がまだ海中にあった新生代第三紀の前半、火山が噴火して噴出した火山灰や砂礫が海水中に沈殿して、それが凝固してできたものとされている。
[編集] 特徴
- 耐火性にすぐれている
- 石の重量が軽い
- 石質が柔らかいため、加工が容易である
[編集] 分布
大谷町付近の大谷石の分布は、東西8km、南北37kmにわたり、地下200~300mの深さまであることが確認されており、埋蔵量は10億トンと推定されている。
[編集] 歴史
- 741年 全国に国分寺が建立された際、栃木県の国分寺の石垣、土止め、土台石に利用されたのが1番最初である
- 810年 大谷寺(大谷観音)、弘法大師により開基と伝えられる
- 明治初期 このころから本格的な採掘が始まる
- 1922年 大谷石を使用した帝国ホテルが完成。玄関部は現在、博物館明治村に保存されている
- 1944年 糧抹廠の地下秘密倉庫に利用される
- 1945年 資料館の地下採掘場が軍の中島飛行機の地下秘密工場に利用される
- 1969年 地下の平均気温が13度前後であるため、政府米(古々米)の保管庫として利用される
- 1979年 大谷資料館がオープン。地下採掘場が公開される
- 1983年 喜多郎のシンセサイザーコンサートが行われる
- 1987年 山本寛斎のファッションショーが開かれる
- 1989年 2月、宇都宮市大谷町坂本地区にあった昔の採掘場の跡地の地下空間が直径100m、深さ30mにわたり陥没。周囲が住宅地であったことから、住民が避難する騒ぎとなった。
[編集] 採掘
[編集] 手掘り時代
機械化される以前の手掘り時代には、切り出すときにつるはしが利用されていた。手堀りによる採掘法では、五十石(5寸×1尺×3尺)の大きさの石を一本掘るのに4000回もつるはしを振るったとされる。また1人の1日の採掘量は10本だった。 このような手堀による採掘は、採掘方法が機械化された昭和35年ごろまで行われていた。
[編集] 機械化後
大谷石発掘の機械化が考えられるようになったのは、昭和27年からで、機械が大谷全体に普及したのは昭和35年ごろである。機械による採掘法では五十石の大きさの石が1人で1日50本採掘可能である。
[編集] 運搬
手掘り時代には地下の深い採掘場から背負って運び出していた。石塀に使用される石(五十石)1本の重さが70キログラム程あり、重い石では140キログラムの石まで1人で1本担ぎ出したとされている。外に運び出された石は馬車や人車(トロッコ)、荷船で遠くまで運ばれた。 現在では、地下の深い採掘場からは、モーター・ウィンチという機械で石が巻き上げられ、トラックや貨車で全国各地に運び出されている。
[編集] 用途
住宅・倉庫(石倉)・防火壁・貼石・石塀・門柱・敷石・石垣・土止め石(擁壁)
[編集] 出荷先
東京神奈川:37%、千葉21%、埼玉5%、茨城9%、中京関西9%、その他19%
年生産高:55万トン
(それぞれ昭和51年統計)
[編集] 関連項目
- 東武大谷線(宇都宮石材軌道)
- 大谷観音
- 大谷資料館
[編集] 外部リンク
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