大漢和辞典
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大漢和辭典(だいかんわじてん)は、大修館書店から発売されている漢和辞典。諸橋轍次を中心として、数十年の歳月を費やして完成。通称、諸橋大漢和と呼ばれることもある。
5万文字という膨大な親文字と、詩経・論語・孟子・老子・荘子など古今の書物から収集した膨大な数の熟語のほか、篆書の文字1万、掲載熟語の検索ができる語彙索引などを有した、大修館の公式サイトの文言によれば『親文字5万余字、熟語53万余語を収録した世界最大の漢和辞典』であり、漢字の本家たる中国の政府からも一括受注を受けたという。ネガティブな側面としては、大規模な辞典類の常で、版元である大修館の経営を圧迫したことも挙げられる。
全13巻プラス補巻2冊という重厚長大な書物であるため、個人レベルでの購入は容易ではない。電子辞書化の要望も多いが、通常コンピュータで扱える文字数の範囲を大きく超えていることや、そもそも文章の量が桁違いであることなどから、当面は実現しそうにないと言われる。
[編集] 経緯
本書の構想自体は、大修館の社長、鈴木一平から発したという。『従来の倍以上の大規模な漢和辞典』(当初構想では1巻本)の構想を思いついた鈴木は、1925年漢字研究で知られた諸橋博士に打診。そのあまりの途方の無さに当初は断られたが、1年3ヶ月がかりの交渉の末、持ち前の熱意で口説き落とす。諸橋による予備調査の結果、当初の予想をさらに遥かに超えた大著となることが判明。あまりに膨大な量であることから躊躇もあったが、鈴木と諸橋は協議の結果、刊行作業の続行に踏み切る。大修館にはこの本のための専用組版所が設けられた。
1943年、第1巻を刊行。しかし戦災により大修館本社もろとも印刷用の版はすべて失われる。戦後、残された校正刷りを元に作業再開するが、活字を彫る職人の不足などから従来形態での刊行は不可能と判断した鈴木は写真植字機研究所(写研)の石井茂吉に写植原字の作成を依頼。石井は体調を理由に断るが、鈴木は1年以上かけてこれを口説き落とす。また、同時に鈴木は息子達を大学から中退させるなどしてそれぞれ編集・印刷・経営などを習得させ、辞典の製作の一翼を担わせた。
1957年 - 鈴木は菊池寛賞を受賞。 1960年 - 13巻が完結。ここで一応の完成を見る。
1965年 - 諸橋、文化勲章を受章。その後1982年に死去。 2000年 - 補巻を加えて全15巻となり、諸橋の当初の構想の全体が完成。