大日本国粋会
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大日本国粋会(だいにほんこくすいかい)は日本の右翼団体である。1919年(大正8年)関西の西村伊三郎の提唱により関東の梅津勘兵衛、河合徳三郎を中心とし原敬内閣の床次竹二郎内務大臣の肝いりで結成された。註1 その実態は経済不安を背景にした社会主義運動の高揚と全国的な労働争議に対抗する為に博徒と土木建築請負業者より結成された反動団体である。本部は東京に置き最盛期に会員60万人を呼号した。1924年(大正13年)の奈良水平社と国粋会支部との闘争は有名である。(水国事件参照)後に大日本国粋会総本部と改名。太平洋戦争終結後に事実上消滅。以下は「大日本国粋会の下地(大右翼史その他右翼に関する本より)」参照。
- 註1 「右翼群生期」によると1919年前後には森健二の大正赤心団、石井三郎の皇道義団(1918年)、大日本国粋会(1919年)、河合徳三郎の大和民労会(1922年)、酒井栄蔵の大日本正義団、大杉精一の東海聯盟(1925年)、他に山田春雄の大日本神農会、国柱軍、鉄血団等の団体が群生し、岡山の木下唯助(木下サーカスの創始者で興行界の大物)も誠友会を設立している。彼らの多くは思想性が希薄であり暴力活動に終始したとされる
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[編集] 役職
- 結成当時)総裁 (欠員)、会長 磯辺四郎
- 磯辺没後)総裁(欠員)、会長 村野常右衛門、副会長 高橋威光、理事長 中安信三郎
- 大木就任)総裁 大木遠吉、会長 村野常右衛門、副会長 高橋威光、理事長 中安信三郎
- 大木没後)総裁 鈴木喜三郎、会長 村野常右衛門、副会長 高橋威光、理事長 中安信三郎
- 村野退任)総裁 鈴木喜三郎、会長 高橋威光、理事長 中安信三郎(高橋没後会長就任)
中安没後は会長欠員(昭和8年3月18日の合同本支部長大会から)
- 相談役又は顧問 勝梅太郎、楠瀬幸彦、三浦悟楼、床次竹二郎、頭山満、滝脇宏光 他。(時期不同)
機関紙:「国粋の日本」(毎月発行)
[編集] 綱領・内規 他
- 一、皇室を中心として民族の統一を計り盛んに経綸を行なうこと
- 一、政治を侠道により行ない、政治家に信義を守らしめること
- 一、韓国併合以来二十年東亜の天地今猶擾乱熄ず生民塗炭に苦しむ。此を救うは日本国民の天職と信ずること
- 一、敬神崇祖の念を昂め国民の思想を善導すること
- 一、労使の協同により資本家、労働者相互の共存共栄を図り国民生活の安定を得しめること
別の綱領は以下の通り。
- 一、本会は意気を以って立ち、任侠を本領とする集団也
- 一、皇室を中心として晋く同士を糾合し、国家の緩急い応じて奉公の身を挙ぐることを期す
- 一、本会員は古来より同士の間に慣行せられたる血約作法を尊重し且つ之を維持す
内規五ヶ条は以下の通り。
- 一、富豪の門をくぐるべからず
- 一、政党の門を叩くべからず
- 一、会員より会費を徴収すべからず
- 一、会の費用は役員相持ち寄りのこと
- 一、役員は一切手銭手弁当たること
若者に唱導された任侠者七つの我慢は以下の通り。
- 一、暑さ、寒さの我慢
- 一、ひだるさの我慢
- 一、女の我慢
- 一、金銭の我慢
- 一、痛さの我慢
- 一、寄せ場の我慢
- 一、いのちの我慢
[編集] 結成までの沿革
米田譲に下工作をさせた床次は1919年(大正8年)10月10日、床次の招待という触込みで伏見の西村伊三郎を通じ西日本の博徒と土木関係の親分を東京に集めた。この呼びかけに橘利八郎、塩田伊三(勇山)、西村伊三郎、竹内寅吉、増谷虎吉、永井長次郎、山村盛二、細川作太郎、嘉納健治、伊藤徳松、花房仙太郎、柳沢熊吉、佐々木溝吉、巻生良之助、石野シン(馬偏に辛)策ら36人が上京。 内務省大臣室にて床次と会見するが、米田が詰め掛けた新聞記者に「侠客諸君は…『内相の意見を聞きたい…』と言う事で上京しました」と説明した事が親分衆の反発を招き宿舎の東京ステーションホテルに引上げてしまう。神戸の※嘉納健治(灘御影町。嘉納家の出身)は「これは一杯食わされたわい」と神戸に引き上げる。
※関西随一の大物やくざ。興行は五島組、俊藤浩滋、ボクシングは谷崎善次の神戸ジム(現在の千里馬神戸)、ライオン野口の野口ジム(野口門下からは多士済済、キックボクシングは野口の次男である修の創始)へと連なる一大山脈を形成している。
[編集] 大日本国粋会発足
床次は翌11日に丸の内海上ビルの「中央亭」に35人の親分を招くと「(呼んだ、呼ばないについては)水に流して、ますます多事多難である我が国の現状につき、お互いに国家のために尽くしたい。それには多数の人の頭に立っている諸君であるから宜しくこれからご指導して欲しい」と挨拶し「世の為に尽くさんというますらをの其のことのはを忘れるなよゆめ」という自筆の歌を石版刷りにして親分達に贈ったとされる。 会見で勢いのついた西村伊三郎はその月(1919年の10月)の28日に日本侠客の右翼的再編を提唱し大日本国粋会が高橋威光、村野常右衛門、梅津勘兵衛、倉持直吉、河合徳三郎、青山広吉、篠信三郎、関西の中安信三郎らを中心として床次、古賀廉造法制局長官、原敬総理大臣の肝煎で結成される。会の名づけ親は日本主義の大家、杉浦重剛(東宮御学問所御用掛)である。
[編集] 関東と関西の軋轢
発足直後から国粋会内部では関西の西村伊三郎がリーダーシップをふるったことへ関東側が反発。芝の榎本政吉が関西側との折衝にあたるが運営はいきなり座礁する。発起人側の浦上信夫、河合徳三郎、西村伊三郎、中安信三郎が関東側へ個別の説得を行った結果11月14日両国の料亭矢の倉福井楼大広間で和解の席が設けられる。 参集した侠客たちの下座に据えた一双の金屏風を前に梅津勘兵衛(関東側世話役)、西村伊三郎(関西側世話役)が威儀を正し、梅津が「弱きを助け強きをくじく私共は唯この任侠を本領として御互いに国家のために尽くしたい……」と口を切りやっと運営がスタートする。
しかし、1922年には浅草から入谷にかけて総本部(関西)と関東本部の闘争も発生するなど紛争が絶えず1927年(昭和2年)10月に両者で折衝、関東本部の境界線を明確としているが最終的に関東本部が総裁木田伊之助、理事長梅津勘兵衛のもと支部17、会員5万人の関東国粋会として独立(1930年)する事で決着している。
[編集] 備考
1920年代の後半にはこの様な団体が大手を振って活動している状態であり、これに対して原の後継である田中義一は取り締まるどころか積極的に関与している。国会議事録によると議会で「田中内閣ほど反動団体が世間を自由に歩いている内閣はない」と述べた演説者には大きな拍手があったとされる。このように社会主義運動を懸念する政治家でさえ、彼らヤクザ者への忌避の念は強かった。
[編集] 関連項目
- 國粹会(旧名・日本国粋会)