城島健司
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男子 野球 | ||
銅 | 2004 | 野球 |
城島 健司(じょうじま けんじ、1976年6月8日 - )は、長崎県佐世保市出身のプロ野球選手である。ポジションは捕手だが、肩の負傷などの際に一塁手も守った事がある。背番号は2。右投げ右打ち。愛称は「ジョー」。
日本人捕手には珍しい、闘争心をむき出しにしたプレーをする「攻撃型」捕手。プレッシャーに強く、向こうっ気がつよい。先輩投手や監督、コーチと論争しながら(時には怒鳴られ、殴られながら)ここまでの名捕手に成長した。本塁打を量産するパワーと、座ったまま投げて盗塁を刺す、脅威の強肩が武器。
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来歴
- 別府大学付属高等学校(現、明豊高等学校)時代は1年次から4番を打ち、清原和博、松井秀喜の持つホームラン記録を更新し、高校通算70本塁打の高校史上最多本塁打数を記録。この記録は未だに破られていない。
- 3年次の1994年秋、ドラフト会議前に最初に城島をリストアップしたのは広島東洋カープだったが、駒澤大学への推薦入学が決定しており、スカウト陣が二度目に会いに行ったときにはもう会えなくなっていた。本人はドラフト前からプロ入り拒否を表明していたが、福岡ダイエーホークスがドラフト1位で強行指名。これには駒沢大学の当時の太田監督も怒りを隠せず、「今後、ダイエーには選手を入団させない」という問題までに発展させた(後に和解)。当時ダイエー監督の王貞治の説得で入団を承諾。「ダイエー最初の根本マジック発動」とも言われた。
- 当初は辛口の達川光男バッテリーコーチから「こんな下手なキャッチャー見たこと無い」と言われたが、1年目・2年目は主に2軍で基礎育成を受け、2年目の1996年にウエスタン・リーグ新記録となる25本塁打を放つと、翌1997年より1軍・捕手レギュラーに定着。同年オールスターファン投票で、戦後生まれでは最年少となる21歳45日で捕手部門1位選出。この年打率.308、15本塁打、68打点。工藤公康・武田一浩らベテランピッチャー、若菜嘉晴バッテリーコーチの公私共の支え、田村藤夫捕手の教えもあり以後不動の正捕手となる。
- 1999年にはチーム唯一の3割を打つなど球団初のリーグ優勝・日本一に貢献。
- 2000年は故障により84試合の出場にとどまったが、チームはリーグ2連覇し日本シリーズに出場。シリーズタイ記録となる4本塁打を放つなど活躍した。同シリーズ敢闘賞を受賞。
- 2001年は長打力に磨きがかかり31本塁打を記録。
- 2002年には再び故障し、出場試合数が減少。ベストナイン賞は逃すが、ゴールデングラブ賞は受賞。ちなみにこの城島の故障の穴埋めのため、田口昌徳が入団した。
- 2003年には打率.330、34本塁打、119打点の驚異的な記録を打ち出し、打撃3部門全てで自己最高の数字を記録。また、野村克也以来史上二人目となる捕手として全140試合フルイニング出場を果たした。リーグのMVPにも選出され、チームの3年ぶりのリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは再びシリーズタイ記録の4本塁打を放つなど大舞台での強さを見せ、チームの日本一に貢献した。2000年の日本シリーズに続き、二度目のシリーズ4本塁打となるわけだが、これは長嶋茂雄以来史上二人目である。また7月27日のオリックス・ブルーウェーブ戦では1試合6安打を放ち、仰木彬(西鉄ライオンズ)の持つリーグ記録に並んだ。
- 2004年はアテネオリンピック野球日本代表に選ばれ、4番打者、正捕手として活躍し、チームは銅メダルを獲得した。ペナントレースではチームがリーグ1位であったにもかかわらず、プレーオフであと一歩及ばずリーグ2連覇を逃し、彼にとっては「悔しい1年」となったが、この年、捕手シーズン打率パ・リーグ新記録となる.336をマーク。また、この年の6月1日に通算1000本安打を達成。出場939試合目での達成は、捕手では1952年の土井垣武(毎日)に並ぶプロ野球史上最速記録となった。
- 2005年6月4日、通算200本塁打達成。
- 例年春季キャンプでは、ブルペン捕手(2005年は森浩之と内之倉隆志)に公式戦で使用するキャッチャーミットの型を作ってもらっていた。2005年シーズン中盤以降は故障。7月中旬に右肩痛を訴えた。その後8月28日にスタメン復帰するも、9月22日の千葉ロッテマリーンズ戦で自打球を左スネに当て、全治2か月の骨折を負う。この怪我のためにシーズンの残り試合には出場できなかった。この時城島に代わり捕手を務めた的場直樹がプレーオフ敗退にベンチで泣き崩れたが、松葉杖の城島は的場の活躍を称え懸命に慰めていた。
- 2005年シーズンオフ、FA権を取得しメジャーリーグシアトル・マリナーズと契約。捕手として日本人選手史上初のメジャーリーガーとなる。最も難しいポジションといわれていた海外でのキャッチャーの座を見事に獲得した。
大リーグ移籍後
- 2006年4月3日(現地時間)の開幕戦(対ロサンゼルス・エンゼルス戦)において、第2打席に日本人史上2人目となるデビュー戦本塁打を放つ。
- 2006年4月4日(現地時間)の開幕2試合目(対エンゼルス戦)において、日本人史上初となる開幕から2試合連続本塁打を放つ。
- 2006年9月19日(現地時間)の対レンジャーズ戦において、日本人メジャーリーガーの1年目では松井秀喜を上回って最多となる17号本塁打を放った。
- 2006年9月25日(現地時間)の対ホワイトソックス戦で、マリナーズ歴代キャッチャーの本塁打最多記録と並ぶ18号ホームランを放つ。
- 2006年、メジャー一年目で、捕手という激務をこなしながらも、打撃の成績を評価され、シーズン終盤は日本の4番に当る3番を努めた。
- 同年、10月1日(現地時間)、シーズン最終戦で、ア・リーグ新人捕手の安打記録を44年ぶりに更新する快挙を成し遂げた。
略歴
- 身長・体重:182cm 90kg
- 投打:右投右打
- 出身地:長崎県佐世保市
- 血液型:A型
- 球歴・入団経緯:別大付属高 - 福岡ダイエー・福岡ソフトバンク(1995年 - 2005年) - マリナーズ(2006年 - )
- FA行使(日本):2005年(1回目)
- プロ入り年度・ドラフト順位:1994年(1位)
- 英語表記:JOHJIMA
- 推定年俸:63250万(2006年)
- 守備位置:捕手
タイトル・表彰
- パシフィック・リーグMVP 1回(2003年)
- ベストナイン 6回(1999年~2001年、2003年~2005年)
- ゴールデングラブ賞 7回(1999年~2005年)
通算成績
- 通算試合 1117
- 通算打率 .299
- 通算安打 1206
- 通算本塁打 211
- 通算打点 699
- 通算盗塁 63
年度 | チーム | 試合数 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 四死球 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995 | ダイエー | 12 | 12 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 1 | 4 | .167 |
1996 | ダイエー | 17 | 58 | 5 | 14 | 2 | 0 | 4 | 28 | 9 | 1 | 4 | 9 | .241 |
1997 | ダイエー | 120 | 432 | 49 | 133 | 24 | 2 | 15 | 206 | 68 | 6 | 27 | 62 | .308 |
1998 | ダイエー | 122 | 395 | 53 | 99 | 19 | 0 | 16 | 166 | 58 | 5 | 35 | 67 | .251 |
1999 | ダイエー | 135 | 493 | 65 | 151 | 33 | 1 | 17 | 237 | 77 | 6 | 39 | 61 | .306 |
2000 | ダイエー | 84 | 303 | 38 | 94 | 22 | 2 | 9 | 147 | 50 | 10 | 33 | 48 | .310 |
2001 | ダイエー | 140 | 534 | 63 | 138 | 18 | 0 | 31 | 249 | 95 | 9 | 37 | 55 | .258 |
2002 | ダイエー | 115 | 416 | 60 | 122 | 18 | 0 | 25 | 215 | 74 | 8 | 38 | 41 | .293 |
2003 | ダイエー | 140 | 551 | 101 | 182 | 39 | 2 | 34 | 327 | 119 | 9 | 68 | 50 | .330 |
2004 | ダイエー | 116 | 426 | 91 | 144 | 25 | 1 | 36 | 279 | 91 | 6 | 71 | 45 | .338 |
2005 | ソフトバンク | 116 | 411 | 70 | 127 | 22 | 4 | 24 | 229 | 57 | 3 | 49 | 32 | .309 |
2006 | マリナーズ | 144 | 506 | 61 | 147 | 25 | 1 | 18 | 228 | 76 | 3 | 20 | 46 | .291 |
計12年 | NPB・MLB | 1261 | 4537 | 658 | 1353 | 247 | 13 | 229 | 2313 | 775 | 66 | 422 | 520 | .298 |
成長エピソード
若手時代は、打撃能力は元から高かったが、ワンバウンドの投球を捕球することができなかった。身体が投球から逃げ、ワンバウンドの投球はほとんど暴投もしくは捕逸になる状態であった。バッティングは当初から十二分に通用する名打者だったので、捕手に拘る必要性を周囲の人々は感じておらず、一時、王監督はファーストにコンバートする意向を示していた。しかし、これらの意見にとらわれず、城島の捕手としての才能を見出し、守ったのが若菜嘉晴コーチ(当時)であり、本人も「もっと上手くなりたい」と持ち前の精神力と向上心で努力を重ねた。納得しなければどんな人でも突っかかる性格である城島は、王監督にも何度と無く臆することなく立ち向かい、王監督が現在まで、一番殴った選手だと言われている。
若菜は城島を福岡の繁華街である天神に連れ出し、人を観察させた。信号待ちをする人がいると城島に「あの女の人はこのあとどこに向かうと思うか?」と聞き、若菜は「小奇麗な女の人はブティックに入るぞ」と話し、その通りブティックに入っていったと言う。この人間観察は、その後のキャッチャーとしての活躍に於いて大きなスキルとなっている。
当時ダイエーには、工藤公康と武田一浩の左右エースがいた。城島は来る日も来る日も工藤や武田に教えを乞い、深夜の宿泊ホテルで就寝している二人の部屋にも押しかけたことがある。「お前、もう帰れ」と怒鳴られても、それでも城島は教えをあおいだ。城島自身、工藤や武田が登板する日は「負けたらボクのせいだ」と決め込み、負けた日には涙を流していた。その姿勢を工藤と武田は評価し、城島の才能を育てた。二人の体当たりによる指導で、城島のリード面は磨かれていった(1999年に武田が中日に、2000年に工藤が巨人に移籍したが、それでもなお城島は自ら向上をしようと、彼らに質問をしていたと言う)。このことや、元から備わっていた素質が、現在に於ける、非常に特殊な強気のリードに繋がっているという。
レギュラー獲得直後に移籍してきた田村藤夫は、既に全盛の力は無かったが、城島の手本になればと若菜が懇願して来てもらった選手である。若菜が現役時代、日米両方のキャッチャーを見てきた中で、当時のなかで一番キャッチングが上手だった選手が田村だと言う。若菜は田村のインサイドワークや無駄の無いスローイングなどをビデオに撮り、また田村の練習風景を二人で観察し、常人を上回る成長を成し遂げた。
リーグを代表するキャッチャーとして名を刻み、本人もチームの代表選手としての意識が芽生え、2003年にアテネ五輪予選に出場した頃からワンバウンドも止められる、キャッチング部分でも一流の選手として認められるほどになった。
現在では、捕手と打撃を両立しながらも、打率、本塁打数、打点、実績ともに日本人史上最高の捕手へ成長している。若手時代には酷評した達川も現在では「本当に頑張ったんですね。もう、素晴らしいキャッチャーですよ」と発言した。
メジャーリーグに移籍して一年目は、投手の問題もあり、捕手としての成績はあまり芳しくないようにみえたが、打者としては堂々たる成績を残した。 歴代日本人メジャーリーガー一年目のホームラン最多数を記録し、打率は歴代日本人メジャーリーガーでイチローに次いで2位だった。 まだまだ発展途上で、大いに期待されている。
その他エピソード
- 例年春季キャンプでは、ブルペン捕手(2005年は森浩之と内之倉隆志)に公式戦で使用するキャッチャーミットの型を作ってもらっていた。
- 城島はプロ野球捕手にしては珍しい闘志剥き出し型タイプである。そのためプロ野球OBの評論家に一目置かれる存在でもある。また当時近鉄だった高村祐から死球を受け、猛ダッシュで高村に突進したことがある(高村は城島より7歳年上)。また有名なものとしては、普通の現役選手なら顔を見ただけでそそくさと逃げ出すほど口の悪いことで知られる豊田泰光が、スポーツ紙で城島を酷評。それを読んだ城島は、その記事を寮の天井に貼り付けて「いつかきっと、これを書いた奴を見返してやる」と発奮した。後に豊田泰光は自らの著書に「城島を今の一流スターにしたのは自分だ」と誇示していたが、城島は1999年の福岡ダイエーホークスの春季キャンプを取材していた豊田に「俺のことをボロクソに書くなこのヤロー!!」と怒鳴っている。
- 若手時代は、ワンバウンドの投球を捕球することができなかった。身体が投球から逃げ、ワンバウンドの投球はほとんど暴投もしくは捕逸になる状態であった。このことから達川光男コーチ(当時)及び野村克也、森祇晶ら大物から「こいつはキャッチャーに向いてない」という声が聞こえ、一時は王監督でさえもファーストにコンバートする意向を示していたほどである。これらの意見にとらわれず、城島の才能を見出し、守ったのが若菜嘉晴コーチ(当時)であり、本人も「もっと上手くなりたい」と持ち前の精神力で努力を重ねた。その結果、2003年にアテネ五輪予選に出場した頃から現在では捕球でも打率、本塁打数、打点、実績ともに日本人史上最高の捕手へ成長している。
- 強打者のわりには三振が少なく、例年3割前後を記録している。一時期は悪球をも打つとも言われており、2000年の日本シリーズ第1戦では、工藤公康のワンバウンドしそうなボール球を打ってホームランにした。
- 野球界有数の海釣り好きとして知られ、腕前はプロ級である。シーズンオフはおろかシーズン中でも暇を見つけては釣りに出かけるほどで、某釣舟屋のサイトに、釣果の大きなチヌを手に写った写真が掲載されたこともあるほど。地元の新聞の釣りコーナーにも「ホークスの城島選手」ではなく「佐世保市の城島さん」として掲載されたことがある。
- メジャーリーグ進出にあたり、マリナーズを選んだ理由として、「家族が(シアトルにある)宇和島屋という日系スーパーを気に入った」という理由を挙げていたが、当然ながらシアトルが海のすぐ近くで、自分がオフの日に海釣りにすぐ行けるという要素もあった。
- 嫌いな食べ物はカボチャで、とんねるずのみなさんのおかげでしたの「食わず嫌い王決定戦」に出演した際も隠しきれずに敗北。なお、出演当時、城島はオフのTV出演を自粛する意向を示していたが、先輩の井口資仁が同コーナーに出演して敗北。勝ったとんねるず石橋貴明が「次は誰だ?城島か!?」と発言。井口の交渉により、出演が決定した。
- かつて、メジャーリーグに移籍したら「ジョージ・マッケンジー」という登録名にしたいと冗談で言っていた。これとの関係は分からないが、週刊少年サンデー連載の漫画『ブリザードアクセル』に「ジョージ・マッケンジー」というキャラクターが登場する。この影響か、インターネット掲示板で、よく「ジョージ・マッケンジー」と書かれている。またごく一部のホークスファン(大概はファンになりたてでまだあまり選手の事を知らない初心者)の中には、彼のことを「ジョージ・マッケンジー」という外国人選手と勘違いする、もしくは「ジョージ」選手と「マッケンジー」選手という二人の外国人選手がいると勘違いするファンも見られる。これを逆手に取ったかどうかは不明であるが、自身がイメージキャラクターを務める福岡銀行のコマーシャルにおいて、2006年4月からの放送分で「ジョージ・マッケンジー」と表記され、CMソングまで作られた。
- マリナーズでの背番号上の名前表記は、ホークス時代と同じ「JOHJIMA」となっている。共にメジャー経験者の新庄剛志は阪神時代の「SHINJYO」が「SHINJO」、大塚晶則は近鉄・中日時代の「OHTSUKA」が「OTSUKA」と変化しているのだが、なぜか城島は「JOJIMA」になっていない。
- 大沢啓二がテレビで「城島の座った状態での送球は真似しないほうがいい」と発言した事がある。肩を痛めるからと言うのがその理由で、実際に城島の強肩があるからこその送球であり、城島自身もそれが原因で肩を痛めたこともたまにあるので、現在は座ったままの送球はしなくなっている。
- サントリーのDAKARAのCMで、体全体をブラブラさせる健康法をやって「立ちくらみがしますね」と言ったことがある。
結婚
2000年11月27日にCMタレントの大藤真紀(当時23歳)と結婚。出会いは1997年TVQ九州放送のタカハチ組というスポーツ情報番組で、3年間のオープンな交際を経ての結婚だった。結婚発表時の記者会見は福岡ドーム横のシーホークホテル&リゾート(現在はJALリゾートシーホークホテル福岡)にて行われ、この模様が福岡放送「めんたいワイド」の中でも生中継された。2001年には長男が、2003年には長女が、2006年には次男が生まれた。夫婦の仲のよさはホークスナイン・ファンの間でも評判である。
尚、真紀夫人は完全引退し、城島を陰からサポートしている。
現在、三児の父。ヘルメットに貼られた息子の写真を見、首に吊るした結婚指輪にキスをして、さらには家族のイニシャルを描くしぐさをしてから打席に立つほどの愛妻家である。
関連項目
(この2社でホークス時代よりイメージキャラクターを務め、マリナーズに移った現在も引続き出演している)
外部リンク
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