坂口安吾
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坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年2月17日) は日本の小説家、エッセイスト。本名は炳五( へいご)。名前の由来は「丙午」年生まれの「五男」に因んだものである。東洋大学文学部印度哲学科卒業。純文学のみならず、推理小説、文芸エッセイまで、幅広く活動したが、早世。
[編集] 年譜
- 1918年、新潟尋常高等小学校を卒業。
- 幼少時は破天荒な性格で知られ、何度か落第の危険に陥った。小説は早くから読んでおり、幼少期には『猿飛佐助』、少年期以降はオノレ・ド・バルザック、谷崎潤一郎などを読んでいた。反抗的な落伍者への畏敬の念が強く、エドガー・アラン・ポー、シャルル・ボードレールなどに影響を受けた。
- 1919年、県立新潟中学校(現・県立新潟高校)に入学。
- 殆ど学校には通わず落第し、家庭教師をつけられたりしたが逃げ回っていた。
- 1922年、県立新潟中学校を放校処分、東京の私立豊山中学校(現・日本大学豊山高等学校)に編入。
- 1923年、父・仁一郎死去。このころ文学には興味を逸していた。
- 1925年、豊山中学校を卒業。東京・下北沢の分教場の代用教員となる。
- 1926年、代用教員を辞し、東洋大学文学部印度哲学倫理科(現:インド哲学科)に入学。
- 1930年、東洋大学を卒業。在学中は、語学学習に熱中した。この年、同人誌『言葉』を創刊した。安吾は、翻訳評論『メランジェ――プルウストに就てのクロッキー』を発表した。
- 1931年、『言葉』は廃刊に追い込まれたが、後継誌『青い馬』を創刊。『風博士』を発表すると、牧野信一から絶賛された。『黒谷村』は島崎藤村に賞賛された。いずれも『青い馬』発表。この頃から新進作家としての地位を獲得した。
- 1942年、母死去。
- 1943年、エッセイ集『日本文化私観』を刊行。
- 1940年代前半は、大東亜戦争中のため、執筆活動が大幅に減った時期だった。安吾はその間に歴史書を読んでいた。
- 1946年、エッセイ『堕落論』を雑誌『新潮』に発表した。終戦後の暗澹たる世相の中で、戦時中の倫理を否定し、「落ちきること」を肯定して多大な反響を呼んだ。また同年、小説『白痴』を『新潮』に発表した。この2作によって安吾は戦後の世相に大きな影響を与えることになった。また、太宰治、石川淳らと共に新文学の旗手とも称された。
- エッセイは他に、『デカダン文学論』、『堕落論・続編』などをそれぞれ文芸誌に発表した。
- 1947年、前年の反響が大きかったため、執筆のペースは大幅に増えた。**『風と光と二十の私と』を『文芸』に、『戯作者文学論』を『近代文学』にそれぞれ発表。また、名作として名高い『桜の森の満開の下』を『肉体』に発表。『堕落論』を銀座出版社より初めて刊行。
- 9月以降、「日本小説」に、推理小説『不連続殺人事件』を発表。
- 10月、『青鬼の褌を洗う女』を『週刊朝日』に発表。**12月には表題作を含めた短編集を山根書店より出した。
- この年に、梶三千代と結婚した。
- 1948年、『風と光と二十の私と』、『不良少年とキリスト』、『不連続殺人事件』を刊行した。また『坂口安吾選集』を銀座出版社から刊行した。
- 『不連続殺人事件』は、探偵作家クラブ賞を受けた。
- 1949年、薬中毒により東京大学病院に入院した。
- 1950年、推理小説や大衆小説、エッセイを多数発表した。
- 1951年、『新日本地理』のため、全国を旅行した。それらいくつかの文章を『文芸春秋』に掲載。
- 1955年、脳出血のため桐生市の自宅にて死亡した。享年49。
[編集] 主要著書
- 堕落論
- 白痴
- 不連続殺人事件
- 桜の森の満開の下
- 信長
- 吹雪物語
[編集] 外部リンク
- 坂口安吾デジタルミュージアム
- 坂口 安吾:作家別作品リスト(青空文庫)
- 坂口安吾専門ページ【安吾的】(安吾全集の索引有り)