呉起
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呉 起(ご き ? - 紀元前381年)は中国戦国時代の軍人、政治家、軍事思想家。孫武、孫臏と並んで兵家の代表的人物とされ、兵法の事を別名孫呉の術とも呼ぶ。死の後に兵法書『呉子』の作者に擬せられた。劉向(前漢の宗室)の『別録』によると、子に呉期がいたという。
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[編集] 略要
[編集] 生涯
衛に生まれ、立身出世を志して曾子に学んだが、母の葬式にも帰らなかったため破門された。
その後、魯の元公の嘉に仕えてその将軍となる。斉人を妻にしていたために将軍に任用する事を危ぶまれたが、先んじて妻を殺すことでそれを晴らした。しかし、それが結局人格に対する不信感を産み、魯の大夫達は「呉起は自分の妻を殺したばかりでなく、魯と兄弟国である衛を独断で侵略した怪しからん人物である」という讒言にあって、彼は元公から懲戒免職されて失脚し、身の危険を感じて、魏の文侯のもとに走る。
文侯は魏の歴代の君主の中でも一二を争うほどの名君で、積極的に人材を集め、魏の国力を上昇させていた。文侯が呉起を任用するかどうかを家臣の李克に下問した。李克は「呉起は貪欲で好色ですが、軍事にかけては名将司馬穰苴も叶いません。」と答え、文侯は呉起を任用する事に決めた。
呉起は軍中にある時は兵士と同じ物を食べ、同じ所に寝て、兵士の中に傷が膿んだ者があると膿を自分の口で吸い出してやった。ある時に呉起が兵士の膿を吸い出してやると、その母が嘆き悲しんだ。将軍様がじきじきにあんな事をやって下されているのに、何故泣くのだと聞かれると「あの子の父親は将軍様に膿を吸っていただいて、感激して命もいらずと敵に突撃し戦死しました。あの子もきっとそうなるだろうと嘆いていたのです。」と答えたと言う。この逸話の示すように兵士達は呉起の行動に感激し、呉起に信服して命も惜しまなかったため、この軍は圧倒的な強さを見せた。
呉起は軍を率い、秦を討ち、五つの城を奪った。この功績により西河の太守に任じられ、秦・韓を牽制した。
文侯が死に、子の武侯が即位すると田文(孟嘗君とは別人)と宰相の座を争うが、これに敗れる。これを不服として、本人に抗議し、軍略、政治力、諸侯への威信、それぞれどちらが優れているかを問い質した。すると、田文は三つとも呉起の方が優れていると述べた上で、「だが、今の主君は幼くして民からの信望も薄い。このような状況においては、私と貴殿とどちらが大役を任されるだろうか?」と尋ね返した。ここにおいて呉起は己が田文に如かざることを認めたという。
その後、田文が亡くなり、文侯の女婿でもある魏の公族の公叔が後任の宰相となった。しかし、公叔は呉起を嫌ったために妻の弟である武侯に呉起のことを讒言した。そのために武侯は呉起を疎み始め、両者の間は上手くゆかなくなったという。さらに公叔は呉起を陥れる策略を画策し、呉起に反乱の罪を着せようとしたので呉起は楚に逃亡した。
楚では、時の君主悼王に寵愛され令尹(宰相)に抜擢され、法家的な思想を元とした国政改革に乗り出す。元々、楚は貴族の数が他の国と比べてもかなり多く、それに比例して王権はあまり強くなかった。これに呉起は、法遵守の徹底・不要な官職の廃止などを行い、これにより浮いた国費で兵を養い、富国強兵・王権強化に成功した。この事から呉起は法家の元祖として見られる事もある。しかしその裏では権限の削られた貴族達の強い恨みが呉起に向けられ、呉起もそれを察知していた。呉起が無事なのは悼王の寵愛があればこそだが、悼王は既に高齢であったので呉起の命運は既につきかけていた。
紀元前381年、悼王が老齢で死去すると、反呉起派は呉起を殺すために宮中に踏み込んだ。呉起は敵が来ると悼王の死体に覆いかぶさり、その上から矢が何本も突き刺さり、呉起は絶命した。だが、父の跡を継いだ粛王は、反呉起派の放った矢が亡父の悼王にも刺さった事から激怒して、粛王の厳命で悼王の遺体に射抜いた者達(呉起を殺害した者達)は大逆の罪で一族全員処刑された。呉起は最後に自分を殺したものに対して復讐したのである。
[編集] 評価
その生涯を見ると、どうしてもすこし後世の商鞅の人生と重ならせてしまう。呉起が死んだ後の楚は旧態に戻り、呉起の法はすべて廃止されたようである。商鞅を殺しても法は存続させた秦は最終的に中国を統一するが、もし仮に呉起の法を存続させていれば、楚が中国を統一していたかもしれない。