南海平野線
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平野線(ひらのせん)は、大阪府大阪市西成区の今池駅から同市平野区の平野駅までを結んでいた南海電気鉄道の軌道路線。南海電気鉄道では、この平野線と、現在、阪堺電気軌道(南海電気鉄道の100%子会社)となった上町線、阪堺線を合わせた3路線を「大阪軌道線」と称していた。平野線は、1980年11月27日に阿倍野~西平野間の路線に並行して大阪市営地下鉄谷町線が開通したために役目を譲り、同日限りで廃止された。
和歌山電鐵貴志川線交通センター前駅の駅前に、平野線で最晩年に走っていた車輌(モ205形)の1輌モ217が、同じく大阪産業大学に同形式車輌の1輌モ229が保存されている。
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[編集] 路線データ
- 路線距離(営業キロ):今池~平野間 5.9km
- 軌間:1435mm
- 駅数:11駅(起終点駅含む)
- 複線区間:全線
- 電化区間:全線電化(直流600V)
- 車両基地:大和川操車場(現・阪堺電気軌道我孫子道車庫)
[編集] 運行形態
今池~平野が平野線であるが、運行系統としては一部区間を阪堺線および上町線に乗り入れる形で、恵美須町~平野、天王寺駅前~平野の計2系統が運行されていた(前者は恵美須町~今池が阪堺線、後者は天王寺駅前~阿倍野が上町線)。
平野線の起点今池駅は、平野線が駅南方で分岐するだけのことであり駅施設的には他の途中駅と変わらず、現在でも駅の佇まいはほぼ当時のままであるが、平野線と上町線が交差する阿倍野駅については、交通量の多い阿倍野交差点における併用軌道上で平面交差しており、阿倍野ホームは平野線用と上町線用の計4ホームが存在した。 平野線の阿倍野ホームは、阿倍野交差点の東側に相対ホームが2本(下り・上り)存在した。天王寺駅前発平野行きの電車は「下り上町線用ホーム」を発車すると交差点を左折東進、平野線へ進入後、ふたたび「下り平野線用ホーム」に停車した。それに対して平野発天王寺駅前行きの電車は「上り平野線用ホーム」のみに停車、発車後、交差点を右折北上して天王寺駅前へと向かった。これは当時、上町線用の2つの阿倍野ホームが、両路線の交差部分を中心に点対称に配置されていたためで、「上り上町線用ホーム」が平野線との交差の南側に存在したためである(4ホームのうち、このホームだけ道路上の白線のみで安全地帯が無かった。平野線の廃止後は下りホーム前に移設され、安全地帯も設けられ、完全な相対式ホームとなっている)。 なお、平野線の阿倍野ホームは「阿倍野(斎場前)」として、駅の表示や車内における車掌の停車案内において、上町線のそれと区別されていた(少し前まで交差点名に「斎場前」が残っていたが、現在は改称されている)。 斎場というのは、かつて大阪一といわれた「大阪市営南斎場(阿倍野斎場)」に由来する。火葬施設はのちに瓜破斎場へ移転するが、今も存在する広大な敷地の「大阪市営南霊園(阿倍野墓地)」に名残りをとどめる。
[編集] 電車の行先表示
平野線開業当初より、既存・新造を含めて軌道線車輌の行先表示は布製の方向幕式であったが、戦後(詳細不明)頃より行先看板を車輌前面窓下の右端に掲出する方式になった。平野線では円形の板を使用し、恵美須町~平野が白地に黒文字、天王寺駅前~平野が青地に白文字で、それぞれ始終着駅を並列表記していた。
平野線廃止の数年前より、軌道線車輌を対象に上町線、阪堺線のワンマン運転開始に伴う改造が順次行われたが、そのうちモ161形はツーマン運転が可能で、改造後~廃止までの僅かの間(いつ頃までかは調査中)、「ワンマンカー」の表示板を裏返し、「平野」の方向幕を掲出して、車掌を乗せ平野線に入線するという半ば暫定的な姿がみられた。また、ワンマン非対応車であり、平野線廃止と同じくしてほとんどが廃車となるために、それまで本活躍外(小型車のため)だった平野線に集中的に運用され、最末期は逆に平野線の「顔」ともなったモ205形は、廃止時まで行先板を使用していた。なおモ205形は3輌のみワンマン改造され阪堺電気軌道に継承されている。
因みに、平野線が廃止される2年前の1978年(昭和53年)9月30日限りで全廃された京都市電1800形の6輌が譲渡、大阪軌道線のモ251形として活躍を始めている。方向幕に「平野」が存在しているが、モ251形が平野線を走ったことがあるかは不明。。
現在、阪堺電気軌道に引き継がれている南海時代からの車輌(モ161形、モ351形、モ501形)の、旧タイプの方向幕を参考に示す。
番号:表 示 1 :住 吉 2 :住吉公園 3 :天王寺駅前 4 :あびこ道 5 :あびこ道(赤字) 6 :浜寺駅前 7 :えびす町 8 :平 野 →その後、新タイプに更新されたものは、「貸 切」(赤字)になっている。 9 :東 湊 10 :天神の森 11 :臨 時(赤字) 12 :試 運 転(赤字)
[編集] 歴史
平野線は1913年2月に設立された阪南電気軌道が計画した路線で、同年5月に阪堺電気軌道(旧)が阪南電気軌道を合併し、翌1914年に開業したものである。阪堺電気軌道は1915年に南海鉄道に合併し同社の平野線となった。戦前、平野からさらに八尾までの延伸を計画し、認可を受けたものの、戦争に突入し実現しなかった(この時に得た平野~八尾間の路線延伸の特許は、戦後南海電気鉄道から大阪市交通局に譲渡され、その特許で大阪市交通局は地下鉄谷町線を天王寺から八尾南まで延伸している)。
- 1914年4月26日 阪堺電気軌道(旧)により今池~平野間が開業
- 1915年6月21日 阪堺電気軌道が南海鉄道と合併
- 1929年9月1日 阿倍野に連絡線完成、「天王寺駅前~平野」系統の運行開始
- (不明)平野から八尾までの路線の延伸を計画、その特許と認可を得るものの、戦争に突入し、実現せず。
- 1944年6月1日 戦時中の国策、陸上交通事業調整法により、南海鉄道が関西急行鉄道と合併、近畿日本鉄道が成立。同社天王寺営業局の所属となる
- 1947年6月1日 旧・南海鉄道の路線が南海電気鉄道に分離譲渡。同社大阪軌道線の一路線となる
- 1980年11月27日 最終運行日。平野線「さよなら電車」を運行。平野線全線で終日無料運行が行われた
- 1980年11月28日 廃止
平野線廃止3日後の12月1日に、南海電気鉄道の大阪軌道線(阪堺線・上町線)は分社化され阪堺電気軌道(現)として独立した。
[編集] 駅一覧
今池駅 - 飛田駅 - 阿倍野駅 - 苗代田駅 - 文ノ里駅 - 股ヶ池駅(ももがいけえき) - 田辺駅 - 駒川町駅 - 中野駅 - 西平野駅 - 平野駅
[編集] 接続路線
事業者名は廃止時点のもの
[編集] 大阪市営地下鉄谷町線の南海平野線の代替駅
- 平野線 谷町線
- 阿倍野駅 →阿倍野駅(上町線・阿倍野駅の真下)
- 文ノ里駅 →文の里駅(数百メートルほど距離はあるが、地下鉄出入り口で苗代田駅も代替?)
- 田辺駅 →田辺駅
- 駒川町駅・中野駅 →駒川中野駅(駒川町・中野両駅のほぼ中間にあり、両駅を代替)
- 西平野駅 →平野駅
[編集] エピソード
[編集] 南海電気鉄道平野線の忘れ形見
大阪市東住吉区針中野2丁目に石の道標が立っている。刻まれている文字は「はりみち」と「でんしやのりば」。前者は江戸・元禄時代から今も続き、「針中野」の地名の由来ともなった「中野小児鍼」を指す。一方、後者の「でんしやのりば」は、道標の建立日が大正3年4月とあることから、この月に開通した南海鉄道平野線の中野駅である事は明らかである(この近くを走る近畿日本鉄道南大阪線針中野駅が開業したのは、大正12年のこと)。建立者名は「新吉」とあり、当時の中野小児鍼の院長である。
そして平野線の終点、平野駅跡に面してあるのが「平野南海商店街」。無論この「南海」とは南海平野線の南海である。平野線が現役の頃よりすでに名乗られている。 平野線が、いかに地域の発展を支え、人々に愛されてきたかを計り知るに余りある忘れ形見だ。
[編集] 文ノ里駅跡の記念碑
現在の阪神高速道路14号松原線の高架下、そして大阪市営地下鉄谷町線文の里駅の出入り口付近にあった南海電気鉄道平野線の文ノ里駅跡の前に南海電気鉄道平野線の歴史や各駅の沿革を記した記念碑が建っている。これは、南海電気鉄道平野線の廃止後、地元の文ノ里商店連合会から南海電気鉄道に、長年親しんできた文ノ里駅の跡を偲ぶモニュメントをとの要望があったものが実現したもので、駅名板を模したものに、以下のように書かれている。
- 南海平野線と文ノ里停留場
- 南海平野線は南海電鉄が経営する軌道線の1つとして今池から平野までの5.9キロを昭和55年11月27日まで運転していました。
- 平野線は、当初阪南電気軌道が西成郡今宮村から東成郡平野郷町までの間に軌道敷設を計画、大正2年阪堺電気軌道が同社を合併し、翌年4月26日に今池-平野間の運転を開始しました。
- その後、大正4年6月21日南海鉄道と合併して南海平野線となり、発展する沿線利用旅客の激増に対応し、昭和4年天王寺駅前-平野間直通運転を実施しました。
- 文ノ里駅は大正12年に作られ、戦後の最盛時にはおよそ1万1千人の旅客が乗降し、出札駅舎も設けられていました。
- 戦後は大阪市バスの路線増設をはじめ、自動車の普及と地下鉄線の新設により利用旅客は年々減少の一途をたどりました。
- 昭和48年3月、地下鉄谷町線天王寺-八尾南間の延伸工事が開始され、約7年8ヶ月経った昭和55年11月27日、同線の運転開始と同時に平野線は66年間の続いた旅客営業を廃止しその歴史に幕を閉じました。
- 昭和55年12月
- 南海電気鉄道
[編集] プロムナード平野
南海電気鉄道平野線の平野駅と、その手前、数百メートルの線路跡地で、当時としては、モダンな屋根(八角形)が特徴の旧南海電気鉄道平野駅の駅舎を模したベンチ。平野線を走っていたモ205型電車のレリーフ。信号機。レンガ敷きのレール。車止めレール(当時のもの)。平野線の停留所の骨組を利用した藤棚などがある。因みに、平野線を走っていた「モ205型電車のレリーフ」の横にある説明書きには、以下のように書かれている。
- 「平野線とモ205型電車」
- 南海平野線は大正3年4月26日今池~平野間の開通以来、重要な足として地域の人々に親しまれていましたが、地下鉄谷町線の天王寺~八尾南間の開通により昭和55年11月28日、66年の歴史をとじました。
- モ205型電車は、開通当初の木造電車を昭和10年代に銅製化したものです。
- 駅舎は八角形の欧風木造建築物として建築史上もユニークなもので、中央の照明塔はそのイメージを取り入れたものです。
[編集] 南海電気鉄道平野線の悲劇?
当初、大阪市営地下鉄谷町線の天王寺以南の延伸ルートは、天王寺から南海電気鉄道上町線が走るあべの筋を真っ直ぐ南へ直進し、南港通と交差する播磨町交差点で東へ折れて平野・八尾方面へ行き、あべの筋の交通渋滞が激しい区間を走る南海電気鉄道上町線の天王寺駅前~松虫間を廃止して、松虫で地下鉄連絡とする予定だったが、富裕層が多く住む大阪の芦屋と言われる帝塚山の住民が反対した為、これが白紙撤回され、阿倍野交差点で東へ折れ南海電気鉄道平野線の阿倍野~西平野間と重複する形で延伸される事になり、廃止されるはずのなかった南海電気鉄道平野線が廃止になったということである(大阪市営地下鉄の中で、広い道路も無い完全な住宅地の中を走っているのは、南海電気鉄道平野線の代替区間とも言える谷町線の阿倍野~平野間だけである)。しかしこれは発展的解消といえる。廃止となってもその地下でほぼ同区間を毎日列車が走り、沿線住民の足として平野線の役割を引き継いでいるという状況は、多くの廃止路線の沿線が、鉄路が無くなった虚しさを感じさせるなかにおいては、平野線は「幸せな廃線」といえるかもしれない。
因みに、南海電気鉄道上町線の天王寺駅前~松虫間の地下化計画では、大阪市営地下鉄谷町線の阿倍野駅が南海電気鉄道上町線の真下に作られることになっていた。
[編集] 最終運行日
「一回乗っても南海電車」と親しまれた南海平野線は、最終運行日の1980年11月27日に限り、何回乗っても無料という世界一のサービスで、慣れ親しんだ我が道を精一杯の衣装を纏って走った。またこの最終運行日は同時に地下鉄谷町線が延伸開業した日でもあり、地上に平野線、地下に谷町線という、一期一会の同時運行の日であった。
鉄道友の会主催のお別れ会に、歌舞伎俳優の片岡仁左衛門丈(13代目)や衆議院議員の中馬弘毅(父親の中馬馨が元大阪市長で、当時、南海電気鉄道平野線沿線地域の大阪市西成区・阿倍野区・東住吉区・平野区が選挙区だった)らの著名人が数多く出席したとのことである。
[編集] 現在に残る在りし日の平野線の面影など
- 飛田~阿倍野間に南側に残る鉄道架線用の鉄塔(上町線と阪堺線との繋ぐ送電線用として現役)
- 旧・苗代田駅前の「苗代田郵便局」
- 旧・苗代田駅から程近い「大阪市立苗代田小学校」
- ※大阪市阿倍野区には現在苗代田という地名はなく、平野線の苗代田駅があった位置は、大阪市阿倍野区松崎町と大阪市阿倍野区阪南町との境界で、2の「苗代田郵便局」と3の「大阪市立苗代小学校」の苗代とは、平野線の苗代田駅の駅名が直接の由来である。なお駅名の起源はこの地旧来の字(あざな)、「苗代」に由来している
- 旧・西平野駅跡の「背戸口公園」(交通公園の類)
- 旧・平野駅跡の「プロムナード平野」(遊歩道・交通公園の類)
- 旧・平野駅前の「平野南海商店街」
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