京阪2000系電車
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2000系電車(2000けいでんしゃ)は、1959年から製造された京阪電気鉄道の通勤形電車である。
1966年までの間に100両が製造され、主力の通勤車両として運用されたが、架線電圧の1500Vへの昇圧に伴い、2600系に改造(正確には代替新造)されて1982年までに廃車となった。「スーパーカー」の愛称がある。
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[編集] 製造の経緯
高度成長期を控え、戦前は大阪から見て「鬼門」(東北)の方角に当たるとして宅地開発の遅れていた京阪沿線にも、日本住宅公団(現・都市再生機構)などによる大規模な住宅団地の造成が行われるようになり、通勤客の急増が見込まれていた。 戦後の京阪は、特急用車両を製造して古くなったものを通勤用に転用するという方針を取っていたが、こうした状況を踏まえ本格的な通勤電車が必要とされた。 京阪は、1957年に1300系の増結用トレーラーとして製造した1650形にモーターをはじめとする電装品を取り付け、新型通勤電車のためのデータ取得を行った。この結果を反映して製造されたのが、2000系である。
[編集] 概要
2000系として製造されたのは以下の2形式・100両である(製造時の形式)。製造は川崎車輌(現・川崎重工業)とナニワ工機が担当した。
- 2000形 運転台付きの電動車 68両
- 2100形 中間電動車 32両
2000形は製造時期によってデザインが異なり、1次車(24両)と2次車以降(44両)に分かれる。2100形は2000形の2次車と同時に登場したため、デザインはそれと合わせられていた。
[編集] デザイン・内装
18mの車体に幅1300mmの両開き扉を3つ備えた本格的な通勤電車である。車体はモノコック構造で、側面は卵形のカーブを描く形になっている。塗装は1650形で採用された緑の濃淡が使われた。2000形の正面には両側の窓上に白熱灯の前照灯が埋め込まれていた。他の私鉄がシールドビームを採用する中で京阪は白熱灯にこだわり、埋め込まれているとはいえ巨大な前照灯はいささかスマートさを欠く印象である。
側面窓の寸法・配列は2000形の1次車と2次車以降で異なる点の一つで、1次車は京阪としては珍しく横長(幅900mm)の窓を採用しており、運転台側からの配置はd1D3D3D1である。このようになったのは、、窓につるべの原理を応用したバランサー機構(下段の窓を持ち上げると同時に上段の窓が下りる)を組み込んだためと考えられる。しかし、複雑なバランサー機構は使い勝手に問題があり、2次車では通常の窓に戻して、京阪の伝統である縦長スタイル(幅800mm)となり、窓配置もd1D3D3D2となった。1次車のバランサー機構も後に取り外されている。
内装は緑を中心にまとめられている。2000形1次車ではラッシュ対策として、網棚の前縁に取り付けたパイプにも吊り革を装備していたが、これは早い時期に撤去された。 屋上には押し込み式のベンチレーターが並べられた。このベンチレーターも2000形1次車は高さの低いタイプ2列に対し、2次車以降は高さの高いタイプ1列となっている。
2000系で確立されたデザインは、以後2400系に至るまで、通勤電車の基本スタイルとして踏襲されることとなる。
[編集] 走行機器
本系列の特徴は、全電動車方式による高加減速と、分巻界磁制御による電力回生制動である。特に電力回生制動は従来勾配線を走行する車両のみであり、鉄道線で通常のブレーキとして常用するものとしては日本初のものであった。モーターそのものは出力75kw(東洋電機製造製TDK813A 定格150v555A 1300rpm/最高許容回転数4500rpm)を1両に4台装備しており、出力としては決して大きくないが全電動車方式であることを考慮すれば妥当なものであった。
制御器についても永久直列とし直列10段・分巻界磁段135段の磁気増幅器による超多段制御(最弱界磁率20%)を行う。これらの装備により、起動加速度4.0km/h/s、減速度4.5km/h/sという高性能を生み出した。駆動方式は中空軸平行カルダン駆動方式(ギヤ比6.5)を採用している。
台車は、当時の通勤車としては異例ともいえる全車空気バネである。ただし、2000形1次車と2次車以降(2100形を含む)では内容が異なる。1次車は汽車製造のKS58と住友金属工業のFS327Aという比較的オーソドックスな形式を採用したが、2次車以降は汽車製造の「エコノミカル式」と呼ばれるKS63系が全面的に採用されている。(エコノミカル式の詳細については、1900系の「KS-57」の項を参照)
通勤電車への空気バネの採用は、ラッシュ時とそれ以外で生じる積載荷重の変化をカバーするという考えに基づく先駆的なものであった。今日ではJR・大手私鉄を問わず、通勤用電車で空気バネは広く使われている。
[編集] 運用と変遷
1959年の登場時は2000形2両を単位として、主に4両編成で普通や区間急行を中心に運用された。1次車24両が出揃い、まとまった編成が確保できたことから、翌1960年3月に京阪線のダイヤ改正が実施され、枚方市駅-天満橋駅間の区間急行は昼間時は本系列の限定運用となった。この区間急行はその性能を生かして、同区間を停車駅が9駅少ない急行(当時の駅数)より5分30秒長いだけの27分30秒で結んだ。
また宇治線の三条駅-宇治駅の列車(宇治線内折り返し列車の一部を含む)も昼間時は原則的に本系列限定の運用となった。但し当時存在していた宇治-奈良電気鉄道線(のちの近鉄京都線)直通普通には2200系ともども運用不可能だった。しかし1966年に中書島駅構内付近で脱線事故を起こし、本系列はごく僅かな期間であるが宇治線での使用を中止した事があった(直ちに解除)。
2100形のうち最初に製造された5両は、将来の電動車化を前提に付随車として登場したが、最終的に電動車化は断念され、2150形に改番された。このあたりは、当初全電動車方式による高加減速を意図したものの、後に将来の電動車化を想定した付随車を組み込み、最終的に電動車化は断念された形となった国鉄101系電車に似ている。また、乗客の増加に伴って編成を長くする必要が生じたため、2000形の最後の10両から運転台が簡易撤去され、2100形に組み込まれた。なお、付随車が挿入された編成については高加減速ではないため同じ2000系であっても2000系限定運用には就かず、旧型車と同様に急行や臨時特急などでも使用した。
1971年6月20日のダイヤ改正で区間急行は特急待避を行うダイヤに変更され、本系列の限定運用は解除された。ただし、その後も本系列はその性能から4~6両の編成で各線の普通列車を中心に運用された。また臨時列車の淀屋橋駅-宇治駅間直通臨時急行「宇治号(その他の列車愛称であった時期もあり)」で6連で運用したことがある。当時の宇治駅は最大6連対応だった(ただしホームは5連までしか停車できない)。1972年には2200系の編成組替で余剰となった制御車3両が、運転台を簡易撤去して2150形に編入され、本系列は総計103両となった。
この間、ATS・側面種別表示幕・列車無線の取付の改造がなされている。
[編集] 昇圧対応と終焉
1970年代に入ると架線電圧の1500Vへの昇圧が本格的に検討されるようになり、京阪線で最大勢力だった本系列の処遇が課題となった。本系列の分巻界磁制御の昇圧対応が困難であったことや、新しい冷房付車輌が急行を中心に投入される一方で、普通列車の冷房化のためには本系列の改造もしくは代替車両の製造が急務という状況もあり、本系列の車体や装備品を可能な限り再利用して昇圧に対応した車両に作り替えることとなった。こうして、1978年から本系列の廃車が始まり、2600系へと改造されていった。車籍は受け継がれないため、書類上は「代替新造」という扱いになっている。
最後まで残った編成は、2000形1次車ばかり4両という登場当時と同じ形に組み直され、宇治線を中心に運用されたが、1982年に廃車となった。
[編集] 関連項目
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