中川昭一
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中川 昭一(なかがわ しょういち、昭和28年(1953年)7月19日 ‐ )は、日本の政治家、衆議院議員(8期)。自由民主党政務調査会長。
生年月日 | 昭和28年(1953年)7月19日 |
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出生地 | 本籍地:北海道広尾郡広尾町 出生地:東京都渋谷区 |
出身校 | 東京大学法学部政治学科卒業 |
学位・資格 | 政治学士(東京大学) |
前職・院外役職(現在) | 銀行員 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
衆・国家基本政策委員会委員 |
世襲の有無 | 2世 祖父・中川文蔵(広尾町議) 父・中川一郎(衆議院議員) 叔父・中川義雄(参議院議員) |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
北海道11区 |
当選回数 | 8回 |
所属党派(現在) | 自由民主党(伊吹派) |
党役職(現在) | 政務調査会長 |
会館部屋番号 | 衆・第1議員会館720号室 |
ウェブサイト | [1] |
目次 |
[編集] 略歴
- 1953年7月19日:東京都渋谷区に中川一郎の長男として生まれる
- 1972年3月:麻布高等学校卒業
- 1978年3月:東京大学法学部政治学科卒業
- 1978年4月:株式会社日本興業銀行入行
- 1983年2月:日本興業銀行退行
- 1983年12月:衆議院議員当選
- 1989年6月:宇野内閣で農林水産政務次官に就任
- 1996年11月:自由民主党副幹事長に就任
- 1997年9月:自由民主党北海道支部連合会長に就任
- 1997年10月:自由民主党総務会長代理
- 1998年7月:小渕内閣で農林水産大臣に就任
- 2001年5月:自由民主党広報本部長
- 2002年10月:自由民主党組織本部長
- 2003年9月:小泉再改造内閣、第2次小泉内閣で経済産業大臣に就任(~2005年9月)
- 2005年10月:第3次小泉改造内閣で農林水産大臣に就任
- 2006年9月:安倍内閣発足とともに自由民主党政調会長に就任
[編集] 人物像
- 父・一郎の死後に起きた鈴木宗男との跡目争いは、当時、マスコミから骨肉の争いと書き立てられた。ちなみに、この時の総選挙では、父・一郎の秘書を務めていた経験があり、後に幹事長となる武部勤も立候補しているが落選している。
- 趣味は水鉄砲。
- 酒豪というよりも酒乱に近いほどの大の酒好きであり、事あるごとに禁酒宣言をしているが、なかなか長続きしない。2000年の総選挙の際、選挙事務所で泥酔した姿が全国に放映された。当選し、ダルマに目を入れる際には酔っ払っていた事と墨の量も考えずにやってしまった為、黒い涙の様になってしまった。このいきさつから、巨大インターネット掲示板「2ちゃんねる」において、(中川秀直と区別する為に)「中川(酒)」と記述される。
- 農政を中心に、郵政、電波、文教など幅広く政策に通じており、金融界の出身で住専問題・税制改正に関わるなどして財政金融にも明るいが、外交や国家観においてはタカ派として知られ、中華人民共和国(中国)や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への厳しい発言が目立つ。経済産業大臣時代、中国とのガス田問題では強硬な姿勢を崩さず、また拉致問題では拉致議連の会長もつとめた。英霊への思いから毎年靖国神社に参拝することも欠かさない。
- とりわけ典型的な農林族議員として知られていたため、小泉政権での経済産業大臣就任(2003年)は事務方から驚きと困惑をもって迎えられたが、農業製品の自由化が問題となっていた自由貿易協定(FTA)交渉を巡っては、農林族の大物として党内の族議員の反発を抑えつつ、積極的に推進してメキシコ、フィリピンとの合意に至るなど、ひたすら自由化に反対してきた従来の族議員とは異なる姿勢を見せ、政治家としての幅を広げることになった。続く2005年の内閣改造では農水大臣に横滑りし、引続きWTOの通商交渉で手腕を発揮。内外から高い評価を受けた。
- 1998年(平成10年)7月31日 農水相就任直後の記者会見で「強制連行があったのか、なかったのか分からない。中学校教科書に従軍慰安婦問題が記述されたことも疑問だ」と発言した。(靖国神社参拝派である事もあってか、)この発言で、中華人民共和国(中国)と大韓民国(韓国)は中川を「右派の有力政治家」として強い警戒感を持つ様になる。
- 2004年に発覚した年金未納問題では18年1ヶ月と他の未納議員が大臣や次官就任時の勘違いからの未納と違って国会議員当選以来一度も納入していなかった事実が明らかとなった(2年分事後納付)。
- 2005年(平成17年)従軍慰安婦に関するNHKの番組に圧力をかけたとの疑惑が報道される(詳細は安倍晋三の項参照)。中川は、報道当初は「公正中立の立場で放送すべきであることを指摘した。政治的圧力をかけて中止を強制したものではない」と主張したが、その後「NHKが説明に来たのは(番組放映後の)2月2日。放送内容の変更や放送中止に関しては一切言っていない」と見解を変えている。
- 2005年(平成17年)8月13日の記者会見で中川経産相は、1998年にミサイルを発射した(三陸沖に着弾)北朝鮮について、「相手(北朝鮮)はまともな国ではない。気違いだと思っている。」と発言し、保守派の賞賛を受けた。
- 2006年(平成18年)1月30日の衆議院予算委員会のBSE問題での答弁で、「米国での調査は施行していなく、閣議通りに調査しなかった」と発言し、閣議決定を無視したことを農水相として認めた。
- 2006年4月7日の記者会見で、親中派の二階俊博経済産業相が打ち出した「東アジアEPA(経済連携協定)」構想について「何となく唐突だ。その前にやることがいっぱいある。又、この構想は中国の参加を想定している。昨年春に中国で起きた反日デモの、一般人や民間企業が襲われたことの総括もできていない」と異論を唱えた。(厳密に言うとそれだけが構想反対の理由では無いが。)又、中川は同日「日本は中国と経済連携協定締結の努力をするべきではない。なぜなら中国は日本国民の安全を保証できないからだ」とも語っている。又、更に、中川は同年6月6日の記者会見で日本政府が“冷凍”していた中国向け円借款の“解凍”、つまり再開を決めた事について「なぜ中国に対し、また援助するのか。正直言って分からない」と不満を唱えた。
- 2006年9月の自民党総裁選では、友人である安倍晋三官房長官を支持する考えを明言。安倍総裁のもと政調会長に就任した。安倍と同様に北朝鮮による拉致問題に長年取り組んできた経緯から、”言論弾圧法案”とも称される人権擁護法案には明確に反対である。政調会長起用は同法案を絶対に上程させないという安倍のメッセージでもある。そして同年10月6日に自民党は人権擁護法案の議論を行ってきた党人権問題等調査会の会長ポストを中川昭一政調会長預かりとすることを決めた。 調査会は事実上、機能停止状態となった。
- 兄貴分の亀井静香や平沼赳夫が派閥から離れ、志帥会領袖の伊吹文明もいわゆる総裁候補ではないため、中川への期待は大きい。小泉内閣の5年間には一貫して党7役(広報本部長、組織本部長)や閣僚(経産大臣、農水大臣)として重用され、安倍政権では引続き党三役に就任したことで、同派では将来の有力な総裁候補と目されつつある。
- 2006年10月15日、テレビ番組内で「非核三原則は国民との重い約束だ。しかし、最近の北朝鮮の核兵器実験の動向を受けて、この約束を見直すべきかどうか議論を尽くすべきだ」とアドバルーン発言を行う。翌日、自民党を含む政治家からの非難及び国内世論(特に反核団体)の非難の声やジョージ・W・ブッシュアメリカ大統領から苦言を述べられたのを受けて釈明した。しかし同時に「非核三原則の下で核を持たずにどういう対抗措置ができるのか真剣に考えなければならない」と指摘。「その議論と非核三原則を守ることは矛盾しない」と強調した。各国が北朝鮮の核問題への対応に追われる中、中川の発言によって「北が核を持てば日本も核武装するのではないか」との(米中への)外交的圧力が強まり、米中との連携を強化する結果となった。訪米中の10月27日にも、アメリカの要人達を相手に、“NPTや非核三原則の堅持は当然”としながらも日本の核武装の是非について繰り返し“論議すべし”と言及。
- 2006年10月20日夜、静岡県浜松市内の講演で、北朝鮮による日本への核攻撃の可能性に関し「普通はやらないが、あの国の指導者はごちそうを食べ過ぎて糖尿病ですから考えてしまうかもしれない」と述べた。その後「指導者がぜいたくざんまいをしているのはおかしいという趣旨の発言で、誤解のないようにしてほしい」と釈明した。
- 2006年10月23日付けの『毎日新聞』によると、同紙の取材に、教員免許の更新制度に関連して「日教組の一部活動家は(教育基本法改正反対の)デモで騒音をまき散らしている」「(デモという)下品なやり方では生徒たちに先生と呼ばれる資格はない。免許剥奪だ」と、組合活動を強く批判した。
[編集] 家族 親族
科学技術庁長官を務めた中川一郎は父。参議院議員中川義雄は叔父。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 衆議院議員 中川昭一 公式サイト(公式サイト)
- 自由民主党北海道支部連合会