一色詮範
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一色 詮範(いっしき あきのり、興国元年/暦応3年(1340年)? - 応永13年6月7日(1406年6月22日))は、南北朝時代、室町時代前期の武将。一色範光の子。一色満範の父。官位は右馬頭。左京大夫。兵部少輔。
永徳元年/弘和元年(1381年)、足利幕府の侍所頭人に任じられ、3年間同職を務める。嘉慶2年/元中5年(1388年)、父・範光の死により家督を継ぎ、三河・若狭両国の守護となる。
明徳2年/元中9年(1391年)、山名氏が幕府に対して挙兵した明徳の乱で幕府方に与して武功を挙げ、翌年には子の一色満範が丹後国の守護として取り立てられた。また、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護職も同時期に手に入れている。
応永2年(1395年)、3代将軍足利義満の出家に伴い剃髪し、信将と号した。応永6年(1399年)に大内氏が挙兵した応永の乱でも幕府方に属して武功を挙げた。同年8月、若狭国守護代の小笠原明鎮を解任した。詳細は不明だが守護代小笠原氏との間で確執が生じる事情があったようである。ただし、明鎮は三河国守護代は解任されていない。小笠原氏との対立は子の満範の代になって頂点に達する。
応永13年(1406年)6月7日死去。法号は長慶寺大勇信将。