マヒタラーティベートアドゥンラヤデートウィクロム
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マヒタラーティベートアドゥンラヤデートウィクロム=プラボーロムラーチャチャノック親王(สมเด็จพระมหิตลาธิเบศรอดุลยเดชวิกรม พระบรมราชชนก、1891年1月1日 - 1929年9月24日)はチャクリー王朝の王、ラーマ5世(チュラーロンコーン)の息子(69番目の子)で、ラーマ9世(プーミポンアドゥンラヤデート)の父親。タイに近代的医療を導入した人物として知られ、「タイの医療の父」と呼ばれる。以下、生前の名前「ソンクラーナカリン」で表記する。
[編集] 伝記
バンコク、王宮で誕生幼名はマヒドンアドゥンラヤデート親王(幼名สมเด็จเจ้าฟ้าชายมหิดลอดุลยเดช)。王宮内の学校で初等教育を受け、その後ワット・シーラッタナーサーサダーラームにてサーマネーラ(少年僧)となりワット・ボーウォーニウェートで僧院生活を送った。12才の時に官職名を下賜されソンクラーナカリン親王(สมเด็จเจ้าฟ้ากรมขุนสงขลานครินทร์)と名乗った。その後ドイツに留学し軍事を学び卒業後はドイツ、イギリスの兵士となり訓練に従事した。1916年、帰国し海軍将校に任命される。
ソンクラーナカリンは同年シリラート病院にて収容しきれず、病院から放り出され死んだ病人を目の前にして、心を痛め、本業の海軍将校の役そっちのけで同病院で医療行為を行っていた。しかし、当時の院長チャイナートナレートーン親王は、ソンクラーナカリンに対して「あなたは医者ではない」と警告。ソンクラーナカリンはやむなく病院を去るが、ラーマ6世に留学願いを出しアメリカ、ハーヴァード大学へ留学し医学を学んだ。しかし母親の死亡により半年で帰国。1917年に復学。1919年帰国した。
帰国後ソンクラーナカリンはシリラート病院で医学を教える一方で、ロックフェラー財団から奨学金を得て、それを元手に多数の生徒に奨学金を与えてアメリカに留学させた。同じ時期、シリラート病院の看護婦であったソンワーンと知り合い、サラパトゥム宮殿にて結婚した。1921年、公衆衛生学を学ぶために再びハーヴァード大学へ留学。1926年にも再び留学を行い博士号を取得している。1929年家族ぐるみで帰国するが、帰国中に死を遂げた。死因は肝臓の腫瘍と肺と心臓へ水が溜まったこととされたが、一部で暗殺説もささやかれている。享年37であり、小児医学を学ぼうとしていた矢先であった。
[編集] 功績
前述したようにタイの医学の発展に尽くし、タイ国内の医療への関心を高め、後々アジアでも有数と言われるタイの医療技術の基礎を作った。シリラート病院は当時非常に小規模な病院であったが、ソンクラーナカリンの努力でタイ国内最大となった。後にソンクラーナカリンが設立した医師養成のための学校は独立し、医学のタイ国内最高学府、マヒドン大学を生み出した。
1970年にはラーマ9世によって名前がソンクラーナカリン親王からマヒタラーティベートアドゥンラヤデートウィクロム=プラボーロムラーチャチャノック親王へと格上げされている。1991年にはラーマ9世によって誕生百周年が祝われタイでもっとも際立った人物の一人としてユネスコから参照を受けた。