ピョートル・チャイコフスキー
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ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Пётр Ильич Чайковский 1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日) - 1893年11月6日(ユリウス暦10月25日))はロシアの作曲家。バレエ音楽や6つの交響曲などで有名。ボロディン、バラキレフ、ムソルグスキー、キュイ、リムスキー=コルサコフのロシア五人組の国民楽派に対し、チャイコフスキーは西欧派と呼ばれる。
叙情的で流麗、メランコリックな旋律、絢爛豪華なオーケストレーションでたいへん人気がある。クラシック入門などの企画では必ずチャイコフスキーの曲が挙げられる。作風はリズムの天才と言われ、一つのフレーズを発展の連結にしたり、半音階上昇させたり、または下降させたりと他の作曲家には見られないものがある。曲想はメルヘンチックであり、ロマン濃厚といわれる表情が見えたりする。
チャイコフスキーは同性愛者であったとされ、当時のロシアでは重大問題であったがための苦しみが作品にも反映しているとして、この方面から解釈する見方もある。
目次 |
[編集] 略歴
- 1840年、ロシアのウラル地方ヴォトキンスクで鉱山技師の次男として生まれる。幼少のころから音楽的才能を示したが、両親には息子を音楽家にする意志はなく、10歳でサンクトペテルブルグの法律学校に寄宿生として入学させた。
- 1854年、母親が40歳の若さで亡くなり、チャイコフスキーは大きな打撃を受けた。
- 1859年、法務省に勤務する。
- 1861年、アントン・ルービンシュタインが設立した音楽学校に入学。
- 1863年、法務省の職を辞して音楽に専念。
- 1866年、交響曲第1番「冬の日の幻想」の初演、初のオペラ「地方長官」を完成。同年、アントンの弟、ニコライ・ルービンシュタインが創設したモスクワ音楽院に講師として招かれる。
- 1875年、ピアノ協奏曲第1番を作曲。初演を依頼したニコライ・ルービンシュタインの酷評を受け、ハンス・フォン・ビューローに楽譜を送る。ビューローによる初演は大成功し、ヨーロッパの各都市で演奏された。ニコライはチャイコフスキーに謝罪し、自らもこの曲を演奏するようになった。
- 1876年、富豪の未亡人ナジェジダ・フォン・メックから資金援助を申し出られる。チャイコフスキーとの間には頻繁に手紙が交わされたが、二人が会うことは一度もないまま、この交際は14年間にわたってつづいた。このころ作曲された交響曲第4番はフォン・メック夫人に捧げられた。
- 1877年、アントニナ・イワノヴナと結婚。一説には、同性愛を疑われたための偽装結婚といわれる。この結婚は失敗し、チャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図るほど精神的に追い詰められた。バレエ「白鳥の湖」完成、オペラ「エフゲニ・オネーギン」完成。
- 1878年から約10年間、ヨーロッパ周辺を転々とし、大作から遠ざかる。「弦楽セレナード」(作品48)、大序曲『1812年』(作品49)が書かれる。
- 1881年、友人ニコライ・ルービンシュタインの死。彼の死を悼んでピアノ三重奏曲の作曲を着手する。翌年完成し、ニコライの一周忌に初演。原稿には"a la memorie d'un grand artiste"(ある偉大な芸術家の思い出のために)と書かれていた。
- 1888年、交響曲第5番(作品64)完成。バレエ「眠りの森の美女」(作品66)完成。
- 1890年、フォン・メック夫人から財政援助を打ち切られる。
- 1891年、バレエ「くるみ割り人形」(作品71)作曲。アメリカに旅行。
- 1893年、交響曲第6番「悲愴」(作品74)初演。それから9日後の11月6日に急死。死因には諸説がある。
[編集] チャイコフスキーの死因について
チャイコフスキーは、子供のころから感受性が強く、とりわけ母親との結びつきはたいへんに強かった。法律学校の寄宿生として母親アレクサンドラから引き離されたときには非常な恐怖を味わい、アレクサンドラが40歳でコレラに罹って死亡したときには大打撃を受けたとされる。 モスクワ音楽院で教鞭を執っていた1868年にチャイコフスキーはデジーレ・アルトーというメゾ・ソプラノ歌手と恋愛し、結婚まで考えたが、デジーレが別のバリトン歌手と結婚したために果たせなかった。その一方で、チャイコフスキーは同性を深く愛しており、生前からこの噂があったために、アントニナとの偽装結婚を決めたといわれている。
謎の死因についても、コレラによるとする説が一応の定説と考えられてきたが、1978年にオルロヴァが発表した説によると、チャイコフスキーは貴族の甥と男色関係を結び、貴族の訴えによって秘密法廷が開かれ、そこで砒素服毒による自殺が決定・強要されたという。一方この説に対しても、チャイコフスキーを診た医者のカルテなど、残されている資料から、やはりコレラ及びその余病である尿毒症、肺気腫による心臓衰弱が死因であるという反論が出され(例えばオルロヴァは安置されたチャイコフスキーの遺体にキスをした者がいたという証言を持ち出して「消毒をしなければコレラ患者の遺体にありえないことだ」と主張したが、チャイコフスキーの遺体は安置される前に消毒されていた記録が残っている)、現在ではやはり病死だったのではないかという説がどちらかといえば有力である。ただしこの反論も彼が同性愛者だったのではないか、と言う説そのものについては否定していない。
またコレラに罹患して死亡したとする説においても、「悲愴」初演時点の1893年10月末~11月初頃、ペテルスブルグではコレラが流行しており、そんな危険な状況の中、周囲が止めるのもきかず生水を飲み干して間もなく発症した、とする伝記も見られる。この経緯が事実であるとするならば、ほとんど自殺行為ではないかとする指摘もある。
[編集] 作品評価の変遷
チャイコフスキー初期の作品ピアノ協奏曲第1番は、現在でこそ冒頭の部分などだれでも聞いたことのあるほどのポピュラー名曲だが、作曲された際にはニコライ・ルービンシュタインによって「演奏不可能」とレッテルを貼られ、初演さえおぼつかない状態にあった。
同様に、現在では同ジャンルで超有名曲の座にあるヴァイオリン協奏曲も、名ヴァイオリニストのレオポルト・アウアーからやはり「演奏不可能」と烙印を押された。この曲はアドルフ・ブロツキーのヴァイオリン、ハンス・リヒター指揮でヴィーン初演されたが、聴衆の反応は芳しくなく、このころ評論家として名を馳せていたエドゥアルト・ハンスリックは「悪臭を放つ音楽」とこっぴどく酷評した。ブロツキーはめげずにこの曲を演奏して各地をまわり、次第に人気が高まってくると、ようやくアウアーも評価を改めて自分も取り上げるようになったという。
最後の交響曲「悲愴」も、初演時の聴衆の反応は好ましいものでなかったとされる。しかし、これは曲のもつ虚無感と不吉さえ感じさせる結末のただならなさ故かもしれない。なお、周りの不評にいつも落ち込んでいたチャイコフスキーだったが、「悲愴」だけは「この曲は、私の全ての作品の中で最高の出来栄えだ」と自負するほどの自信作だったようだ。
[編集] 代表曲
- Op11 弦楽四重奏曲第1番ニ長調
- Op20 白鳥の湖
- Op23 ピアノ協奏曲第1番変ロ短調
- Op31 スラヴ行進曲
- Op33 ロココの主題による変奏曲イ長調
- Op35 ヴァイオリン協奏曲ニ長調
- Op36 交響曲第4番へ短調
- Op37 ピアノソナタト長調「グランドソナタ」
- Op37b 四季-12の性格的小品
- Op42 なつかしい土地の思い出
- Op44 ピアノ協奏曲第2番ト長調
- Op48 弦楽セレナーデ ハ長調
- Op49 序曲1812年
- Op50 ピアノ三重奏曲「ある偉大な芸術家の思い出のために」
- Op58 マンフレッド交響曲
- Op64 交響曲第5番ホ短調
- Op66 眠れる森の美女
- Op71 くるみ割り人形
- Op74 交響曲第6番ロ短調「悲愴」
- 幻想序曲「ロメオとジュリエット」
7曲の交響曲(※)のほか、多数のオペラや声楽曲等を残す。
一番有名なのはバレエ音楽で、特に「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」の3曲はチャイコフスキーの三大バレエとして、その旋律は世界中で知られている。
その他、室内楽などにも秀逸な作品を残している。芳醇な和声感覚は他の追随を許さず、当時ロシアの大作曲家であったアントン・ルービンシュタインの才能ですら凌駕した、早熟な才能であった。
欧米において「くるみ割り人形」はクラシック音楽の年末の定番(日本における「第九」のような位置付け)になっており、年末になると頻繁に上演される。
- ※……標題交響曲「マンフレッド」を含む。なおこれらとは別に、後の1950年にボガティレフが「ピアノ協奏曲第3番」の着想の元となった未完成の交響曲を「交響曲変ホ長調」として復元、これがしばしば第7番と呼ばれる。
[編集] 作品リスト(楽曲の種類による分類)
[編集] オペラ
- 「エフゲニー・オネーギン」 作品24 (1878)
- 「オルレアンの少女」 (1879)
- 「スペードの女王」 作品68 (1890)
[編集] 交響曲
- 交響曲第1番ト短調作品13「冬の日の幻想(Winter daydreams)」(1866,1874)
- 交響曲第2番ハ短調作品17「ウクライナ(Ukraine)」(1872,1879)
- 交響曲第3番ニ長調作品29「ポーランド(Polish)」(1875)
- 交響曲第4番へ短調作品36(1877-78)
- マンフレッド交響曲(Symphony "Manfred") 作品58 (1885)
- 交響曲 第5番ホ短調作品64(1888)
- 交響曲 第6番ロ短調作品74「悲愴(Pathétique)」 (1893)
[編集] 協奏的作品(独奏と管弦楽のための作品)
- ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23 (1874-75)
- ピアノ協奏曲第2番ト長調 作品44 (1879-80)
- ピアノ協奏曲第3番変ホ長調 作品75 (1893)
- 協奏的幻想曲 (ピアノと管弦楽のための) ト長調 作品56 (1884)
- ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35 (1878)
- ロココの主題による変奏曲(チェロと管弦楽のための) イ長調 作品33 (1877)
- 憂鬱なセレナード (ヴァイオリンと管弦楽のための) 作品26 (1875)
- 奇想的小品(チェロと管弦楽のための) 作品62 (1887)
[編集] バレエ音楽
[編集] その他の管弦楽曲
- 交響的バラード 作品78 「地方長官 (Voyevode)」 (1890-91)
- 組曲 第1番 ニ短調 (6曲) 作品43 (1878-79)
- 組曲 第2番 ハ長調 (5曲) 作品53 (1883)
- 組曲 第3番 ト長調 (4曲) 作品55 (1884)
- 組曲 (第4番) ト長調 (6曲) 作品61 「モーツァルティアーナ (Mozartiana)」 (1887)
- 組曲 作品71a 「くるみ割り人形(The nutcracker)」 (1892)
- 幻想序曲「ロメオとジュリエット」(1869,70,80)
- 幻想序曲 「ハムレット(Hamlet)」 作品67a (1888)
- 幻想曲 作品18 「テンペスト(The tempest)」 (1873)
- 幻想曲 作品32 「フランチェスカ・ダ・リミニ(Francesca da Rimini)」 (1876)
- 幻想曲 作品77 「運命(Fatum)」 (1868)
- 序曲「1812年」 作品49 (1880)
- イタリア奇想曲 作品45(1880)
- スラヴ行進曲 作品31(1876)
[編集] 室内楽曲
- 弦楽セレナーデ ハ長調 作品48(1880)
- 弦楽六重奏曲ニ長調 作品70「フィレンツェの想い出(Souvenir de Florence)(1887-92)
- 弦楽四重奏曲変ロ長調 (1865)(第1楽章のみ)
- 弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品11(1871)
- 弦楽四重奏曲第2番ヘ長調 作品22(1874)
- 弦楽四重奏曲第3番変ホ短調 作品30(1876)
- ピアノ三重奏曲イ短調 作品50「ある偉大な芸術家の思い出のために」(1882)
- なつかしい土地の思い出(ヴァイオリンとピアノのための) 作品42 (1878)
[編集] ピアノ曲
- 「ハープサルの想い出」作品2 - 1.城跡(1867)・2.スケルツォ(1863,1864)・3.無言歌(1867)
- ピアノソナタ 嬰ハ短調 作品80 (1865) - 4楽章構成
- 四季(12の性格的描写)-作品37bis (1875-76) - 雑誌の企画で詩とともに毎月載せられた、それぞれの月に由来する12の小品からなる
- 1月-炉端にて 2月-謝肉祭 3月-ひばりの歌 4月-待雪草 5月-五月の夜 6月-舟歌 7月-刈り入れの歌 8月-収穫の歌 9月-狩りの歌 10月-秋の歌 11月-トロイカ 12月-クリスマス
- ピアノソナタ ト長調 作品37 「グランドソナタ」 (1878) - 4楽章構成
- 子どものアルバム(24の易しい小品)作品39 (1878)
- 「ナタ・ワルツ」・「感傷的なワルツ」(1882) - 『6つの小品』作品80より、4曲目および6曲目
- 「ドゥムカ」ハ短調 作品59 (1886) - 「ロシアの農村風景」という副題を持つ
[編集] 著書
- 『一音楽家の思い出』(渡辺護訳/音楽之友社/1952)
- 『和声学実習入門』(1871)