ピトケアン諸島
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属領の標語: なし | |||||
公用語 | 英語、ピトケアン語 | ||||
主都 | アダムスタウン | ||||
主都の座標 | 南緯 25度04分 西経 130度06分 |
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総督 | リチャード・フェル | ||||
島司 | ジェイ・ウォーレン | ||||
面積 - 総計 - 水面積率 |
47km² 極僅か |
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人口 - 総計(2003年) - 人口密度 |
48人 1人/km² |
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宗主国 | イギリス | ||||
通貨 | ニュージーランド・ドル | ||||
時間帯 | UTC -8 | ||||
国歌 | ピトケアン讃歌(英語版) | ||||
ccTLD | .PN |
ピトケアン諸島(ピトケアンしょとう、Pitcairn Islands)は南太平洋上に浮かぶイギリスの海外領土。ピトケアン島はじめ全部で5つの島から成り立っている。諸島といっても一番東のデュシー島から一番西のオエノ島まで500km以上の広がりがあり、その中に5つだけ島が散在しているだけである。ピトケアン島以外には人は住んでいないので、実質ピトケアン島がこの植民地の全てである。又この島の周囲300kmには他に人のすんでいる島は無い。空港は無いので施設の整った病院などに入る場合は4000km近く離れたニュージーランドまで船で行かなくてはならない。しかも定期船と呼べるような物は無いに等しいので、急ぎの場合は船をチャーターする必要がある。まさに絶海の孤島と言えよう。この絶海の孤島に人が住み着くようになったのは、映画でも有名な「バウンティ号の反乱」がきっかけである。現在ピトケアン島に住んでいるのは、このバウンティ号反乱に参加した水兵の子孫達である。
目次 |
[編集] 地理
- ピトケアン島
- ピトケアン島は火山性(最高峰が355m)の面積4.50K㎡の小さな島である。島の周囲は断崖絶壁に取り囲まれており、荒波が島を叩き寄せているため海岸線はほとんど無く、岩がごろごろしている浜がほとんどである。その為、大型の船が島へ接岸するのは難しい。島の北部、海を見渡す丘の方にバウンティ号の反乱のリーダーであるフレッチャー・クリスチャンがいつも居たというクリスチャンケイブと呼ばれる洞窟がある。島の周囲にアダムズ・ロックとヤングス・ロックと言う岩石の小島がある。島民は改造した大型のボートに乗り、島内での交通の乗り物では四輪バギーや日本製のオートバイを乗っている。亜熱帯海洋性の気候で7月から12月は雨季である。
- サンデー島(英語版)
- オエノ島(英語版)
- ヘンダーソン島(英語版)
- デュシー島(英語版)
[編集] 政治・経済
- イギリスからニュージーランドに派遣されている高等弁務官がピトケアン総督を兼ねる。
- 住民により島司、立法議会のメンバーが選ばれる。
- 空港は無い。3か月に1度、ニュージーランドから北米へ向かう貨物船の寄港がある。
- 産業は主に、物々交換による経済として、漁業と農作物を中心に行われており、島で芋やバナナやオレンジなどを植えている。ほか、外貨を稼ぐため切手の販売もある。鉱物資源の開発が経済発展を促す可能性がある。
- 現在ではドメインの.pnの販売に力を入れており、島政府のホームページでもセールスをかけている。
- 2004年まではスティーブクリスチャン市長が島の実質上の行政を行っていた、しかし幼女輪姦事件で2004年10月30日に解任され、後任にはジェイウオーレン氏が就任した。
[編集] 住民
島民はバウンティ号の反乱者のイギリス人水夫とタヒチ系ポリネシア人女性との間に生まれた子孫である。
宗教はキリスト教で、島民は熱心なプロテスタントのセブンスデー・アドベンチスト教会であるため、島民はアルコール(酒)は飲まないし、タバコは吸わない。食のタブーもあり、豚肉や海老は食べないと言う。これは、反乱者達が島に住み着いてから、仲間割れによる島での殺し合いが起きた時、反乱者の最後の生存者であるアダムズが聖書に助けを求めて以来、キリスト教の教えを熱心に現在に至るまで守っているのである。
[編集] 歴史
[編集] バウンティ号以前
ピトケアン島には15世紀頃までポリネシア人が住んでいた事が考古学的に明らかになっている。その後スペイン人によって発見されるまでは無人島であった。1767年にマゼラン海峡を突破した2隻のイギリス軍艦が互いを見失い、片方のサミュエル・ウォリス艦長のドルフィン号がタヒチ島に行き当たり、南方の航路をたどっていた、イギリス船スワロー号のフィリップ・カーレット船長がこの島影を見かけ、最初の発見者であるスワロー号の乗組員ロバート・ピトケアン(アメリカ独立戦争で戦ったイギリス海兵隊ジョン・ピトケアンの息子)の名前に因んでピトケアン島と命名された。ただし地政学的にみてもあまり重要な位置ではなかったし、拠点となるオーストラリア、ニュージーランドなどからも遠かったので、入植は試みられなかったようである。
[編集] バウンティ号の反乱
バウンティ号の反乱も参照。
18世紀の終わり頃、イギリスは西インド諸島において砂糖栽培のプランテーションを経営していた。プランテーションというのは商品作物の栽培のみに特化していて、食料となる作物は他からの輸入に頼る場合が多いが、西インド諸島の場合も同じでその食料は北アメリカのイギリス植民地からの輸入に頼っていた。1775年アメリカ独立戦争がはじまると、西インド諸島植民地の生命線とも言える食糧補給路が絶たれてしまったため、イギリスは非常に困ることになった。困ったイギリスはジェームズ・クックが南太平洋のタヒチで見たというパンノキという植物をタヒチから持ってきて西インドの植民地に植えようと考えた。気候が似ているから環境に適応できると考えたのであろう。
かくしてこの重要なパンノキ捕獲作戦の任を与えられたのがウィリアム・ブライ艦長率いる英国海軍の軍艦バウンティ号であった。バウンティ号はイギリスを出航した後、地球を半周して1789年タヒチにたどり着いた。当時としてはかなりの大航海だったようである。タヒチでパンノキを採取した後、バウンティ号はそそくさと西インドへ向かうが、その帰り道で事件が起こる。
何故バウンティ号の反乱が起こったかはよく判っていない。乗員の飲み水よりもパンノキに与える水を優先したとか、えらく水兵に対して権威的にあったとか、映画や小説などではとかく船長が悪者にされがちであるが脚色と見るべきであろう。反乱が成功した後に反乱水兵達はタヒチに戻っていることから、タヒチの居心地が非常に良かったのかもしれない。原因については現在では推測しか出来ない。ともかく事実としては、帰り道に水兵による反乱が起こり、そして成功したということである。こうして敗れた艦長は命を取られることは無かったが、反乱で艦長に味方した乗組員十数名とと共に小さなボートで太平洋のど真ん中で放り出されてしまった。ここまでが有名なバウンティ号の反乱である。
[編集] バウンティ号その後
バウンティ号のクルーはその後3つのグループに分かれた。この内タヒチに戻った水兵たちはさらにピトケアン島に流れ着いた者とタヒチに居着いたものに分かれた。もう一つは反乱に敗れて船を追い出された艦長達である。
先ず、タヒチに戻った後さらに太平洋の東を目指してバウンティー号の進路を向けたグループがあった。このグループはフレッチャー・クリスチャンはじめとする9名と伝えられている。その他にもタヒチの現地住民男女合わせて16名、その他食料となりそうな植物などをバウンティー号に乗せて東へ進路を取った。彼らがピトケアン島に流れ着いたのは1790年であったとされる。そこでバウンティ号を処分して、自給自足の生活をはじめた。彼らこそが現在のピトケアン島の住民の祖先である。彼らがこうした行動を取ったのはイギリスに逮捕されて処刑されるのを防ぐためである。実際次のグループの中には処刑されたものもいるので、この目的は達成されたといえよう。
次に、クリスチャンのグループに加わらずタヒチに残留したグループである。彼らはタヒチの統一運動に加わり、タヒチ統一に貢献している。しかしその後1791年にイギリス海軍がタヒチにやってきて彼らを捕縛、イギリスに送り内3名が処刑になっている。
最後に太平洋のど真ん中で放り出されてしまった、かわいそうなバウンティ号の艦長であるが、1ヶ月半以上太平洋を漂流した挙句、奇跡的にオランダ領東インド(現在のインドネシア)に流れ着くことが出来た。その後彼は母国イギリスに無事帰還している。
[編集] ピトケアン島その後
1808年アメリカの捕鯨船がたまたまピトケアン島の近海を通った。彼らはピトケアン島に上陸し、そこで男性1名、後は女性が10名、子供が二十数名の集団と出会った。男性の名前はジョン・アダムスと言い彼のほかにこの島には成人した男性は住んでいなかった。さらに1814年に島にたどり着いたイギリス船によってこの島がバウンティー号の反乱に加わった水兵達が落ち延びてきた島である事が判明した。そこでアダムスに対する尋問が始まり判明したことは、この島に辿り着いた水兵とタヒチから連れてきた男性達が互いに殺し合ったと言う事であった。結果アダムスただ一人が生き残ったと言う事であった。この事件はバウンティ号の反乱の後日談として本国イギリスでは非常にセンセーショナルに伝えられた。アダムスは後に反乱に対する恩赦を与えられ、ピトケアン島で亡くなった。彼の名前は町の名前「アダムスタウン」として残っている。
ピトケアン島は1829年にイギリスの領有であると宣言され、正式にイギリスの植民地となっている。
1831年に島民はイギリスにより、タヒチに移住したが、その後、再びピトケアン島に帰ってきた。が、しかし、その後、島民はジョシュア・ヒルと言う成り上がり者の圧政に苦しまれる事になる。この男は支配者気取りで専制政治にあえて異を唱えた3人の島の人に対して鞭打ちの刑を科したりした。島の人が、通りすがりのイギリス船の船長に自分達をヒルから解放してほしいと訴えた1838年までの6年間ヒルはピトケアン島に居続けた。その時以来、島の人は自分達はイギリスの正式な構成員であると言う事を自覚したのである。
ピトケアン島は絶海の孤島という事で交通の便も良くなく、生活の上で色々不便であったため、その後ピトケアン島の住民たちはタヒチや西クリスマス島などへ移住を試みたが環境に適応できないなどの理由によって、結局その多くがピトケアン島に住みつづける事になった。しかし現在ではノーフォーク島・ニュージーランドに移住する者が多くなって人口は減少傾向にある。
[編集] ピトケアン島の最近の事情
1999年この島に研修に来ていたイギリスの女性警察官が、この島の女性からある事実を告げられた。それはこの島の14歳以下の女性と大部分の成人男性が性交渉をもっている。という話であった。彼女はこの事実をニュージーランド在住のピトケアン総督に報告、捜査の結果、この告白は事実である事が判明した。これは本国のイギリスの法律に照らせば当然違法であるわけだが、島の男性はこれは島の風習であり、イギリスの法律で裁くことは適さないと主張している。
またピトケアン島には裁判所と言う物が無い、裁判に必要な判事や弁護士もいないので、実際に裁判を行うには、ニュージーランドまで行かなくてはならない。「容疑者」はこの島のほぼ全ての成人男性であるわけだから、その間島の経済は大きく停滞する事になる。ましてや実刑判決が下れば、島の存続にも関わってくる。一つの島が丸ごと消えてしまいかねない事件として、この出来事はイギリスやニュージーランドだけにとどまらず、世界中で大きく取り上げられることとなった。
結局ニュージーランドでの裁判の開催は地元の負担が大きすぎるという事で、2004年にピトケアン島で裁判を開催する事が決定された。判事や弁護士はニュージーランドからはるばるやって来た。イギリスの海外領土の住民が、イギリス連邦とは言え、ニュージーランドの判事や弁護士により、英国法によって裁かれるという変わった形である。また島の男性が主張していたイギリスの法律の適用外という主張は退けられた。さらに実刑判決が出た場合に備えてイギリス本国では刑務所もピトケアン島に設ける事を決定し、この刑務所に勤務する者の募集を始めた。
2004年10月25日ピトケアン島で裁判が行われ7人の被告に対して裁判が開かれ6人が有罪1人が無罪になった。しかし、判決が出た当時はまだ刑務所が工事中だったため、有罪になった6人とも島の中で自由にしていた。2005年から6人が刑務所に収監されている。
[編集] 島のインフラ状況
皮肉にも幼女輪姦事件が話題になった2004年以降、イギリス政府は島へ大規模なインフラ整備の投資を始めた。 これは住民を文明化してこのような事件が二度と起きない様に教育する目的であったが小さい島に過剰なインフラ整備が行われかなり歪な文明化になっている。
- 島にはラジオ放送もテレビ放送も無いが、衛星放送のアンテナが設置され海外の放送を無料で見ることが出来る。
- 各家庭にはDVDプレイヤーがある。
- 衛星電話があり各家庭に有線電話が引かれている。
- VHF無線が各家庭と船に設置され漁業に出ている船と無線が使える。
- 衛星回線を用いたインターネットが導入され全家庭にパソコンとネットワークが設置されている。そのためインターネット普及率100%という珍しい状態になっている。ただしピトケアン島のドメインである.pnはアメリカの会社が代行販売している。
- 発電機が設置され電気はあるが、ガス水道は無い。
- 水道が無いのは島に水源が無く飲料水を全て雨水に頼っているため。
- 6.4キロにわたって道路が舗装されているが自動車は一台も無い。
- イギリスと同じ生活水準の基準で作られた刑務所がある。
- 2005年に警察署と学校が建設されイギリス本土から派遣された警察官と教師が勤務している。