ハーグ密使事件
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ハーグ密使事件(ハーグみっしじけん)は、大韓帝国がハーグ平和会議において韓国の外交権保護を要請する密使を送ったが、国際社会から完全に拒絶された事件。
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[編集] 経緯
日本は、ロシアの南下政策に対抗するため日清戦争・日露戦争を戦い、1905年の第二次日韓協約(日韓保護条約)によって、大韓帝国の外交権を日本は接収した。これに対して、高宗は密使外交を展開することによってそれを打破しようと試みていた。李容泰、沈相薫、金嘉沈ら大韓帝国内の抗日派は、イギリス人ベッセルやアメリカ人教師(?)ホーマー・B・ハルバートらと図り、さらに海外にいた李学均、李範晋らと連絡を取り合い、1907年6月、オランダ・ハーグで開催されていた第2回万国平和会議に皇帝の密使を直接派遣し、列強諸国に大韓帝国の外交権保護(第2次日韓協約の無効)を訴えようとした。密使として派遣されたのは李儁、李相卨、李瑋鐘の3人。
しかし、同年7月初頭に密使派遣が露見し、出席国であった列強諸国は大韓帝国の外交権が日本にある事、大韓帝国の利益は条約によって日本政府が代表している事などを理由に3人の密使の会議出席を拒絶。さらにハルバートはアメリカ政府に大統領あての皇帝親書を提出したが、これも拒絶された。
出席を拒まれた密使らはやむなく抗議行動として現地でビラ撒きなどを行ったようである。なお、密使のひとりである李儁は抗議のために切腹して果てたというが、その死亡日時は出席を拒絶された時期から10日以上離れており、自殺説には疑問も残る。
[編集] 親書の内容
当時ロンドン・トリビューン紙に掲載された高宗の親書は以下のとおりである。
- 一千九百五年十一月十七日に日本使臣と朴済純が締結した条約は、私は始めから認めておらず、また国璽も押してない。
- 私は、この条約を日本が勝手に頒布することに反対した。
- 私は、独立皇帝権をいっさい他国に譲与してない。
- 外交権に関連した必要の無い条約は強制であり、内政に関連したものも全く承認してない。
- 私は、統監の駐在を許しておらず、皇室権を外国人が行使することを寸毫たりとも許諾してない。
- 私は、世界各国が韓国外交権を共同で保護することを望む。
[編集] 以後
この事件を契機に、当時の韓国統監であった伊藤博文は高宗を厳しく追及。高宗は子の純宗へ譲位して事実上退位し、同年7月24日に韓国統監の権限強化をうたった第三次日韓協約が締結された。この協約によって、韓国は外交権に加えて内政権も日本に接収されることとなった。
[編集] 関連先
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