ネポス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ユリウス・ネポス(Julius Nepos)ことネポス帝(Nepos, 430年ごろ - 480年)は、合法的に選出され、かつ東ローマ帝国から承認された最後の西ローマ帝国皇帝。「ネポス」とは、英語の「nephew」と同じく「甥っ子」の意味がある。これはネポスが、東ローマ帝国皇帝レオ1世の姪と結婚したために付けられた、いわばあだ名であった。
ブルグント人軍師によって帝位を簒奪したグリケリウスの治世を終わらせるために、474年に、レオ1世によって西ローマ帝国皇帝に指名された。このような場合に西側のアウグストゥスを選ぶ権利は、公式的には東側の皇帝が有していたからである。レオ1世によりダルマティアの知事に選ばれた後、474年6月に西ローマ帝国の首都ラヴェンナに入り、皇帝として迎えられ、グリケリウスを追放した。グリケリウスはダルマティアの都市サロナ(現在はクロアチアのソリン)の主教に封じられた。
ネポスは西ローマ皇帝として、現存する領土の画定に努め、イタリアとガリア南北を維持した。西ゴート王国と交渉し、その王エウリックとの間で平和協定を結び、もはや実効支配のできなくなったいくつかの小地域と引き換えに、現在のプロヴァンスを回復した。しかしながらヴァンダルの王ガイセリックとの交渉ははかどらず、ヴァンダルはイタリアの海域で海賊行為を続けた。ガイセリックは東ローマ帝国と平和協定を結んだばかりだったので、ネポスと新たに譲歩する必要を認めていなかったのである。
ネポスは、あらゆる点において、西ローマ帝国の名君の一人であったのだが、東ローマ帝国と通じているというので元老院に人気がなく、忌み嫌われていた。ネポスは、西ローマに核となる支持者がないために、信頼の置けないオレステスを軍師に選ぶという誤算を犯した。475年8月28日にオレステスがラヴェンナ政府の全権を掌握したため、ネポスは船でダルマティアに逃れざるを得なかった。オレステスはゲルマン人であったために自らが皇帝になることができず、ローマ人の女性に産ませた実子ロムルス・アウグストゥルスを帝位に就けた。ロムルスは10歳そこそこの少年皇帝であり、一般には最後の西ローマ帝国皇帝として知られているが、合法的な手続きによってではなく、クーデターによって帝位に就いており、しかも父親の傀儡であった。
しかしながらネポスは、ダルマティアにおいて正統な西ローマ皇帝として権力を握っており、ガリアやコンスタンティノープル宮廷から皇帝として承認されていた。476年にオドアケルは、ラヴェンナを陥落させ、オレステスを殺して9月4日にロムルス・アウグストゥルスを帝位から追放すると、自らイタリアの統治者であると宣言し、東ローマ帝国皇帝ゼノンに、自分を元首として承認してゼノンにイタリア副王に就任するよう持ちかける。ゼノンはこれを受け容れたが、西ローマ帝国皇帝は依然としてネポスであると主張した。オドアケルはこれを容れたために、当時鋳造された貨幣にネポスの名が刻まれることになった。ガリア北部でも似たような状況が見出され、ローマの将軍シアグリウスは、486年に倒されるまで、ネポスの名で貨幣を鋳造した。
ある事件が起きなければ、このような状況が長続きしたかもしれない。まず479年ごろに、ネポスは自らがイタリアを統治したいと望んでオドアケルに対して親書を送った。もう一つは、かなり疑わしい話だが、まだサロナ主教であったグリケリウスが、ネポスに対する復讐をオドアケルに訴えたというものである。いずれにせよ確かなのは、オドアケルがネポスの追放を決意したということである。
ネポスは480年に、部下の兵士によって殺害された。命日については、4月25日説、5月9日説、6月22日説の3つがあり、おそらく4月説が適切であろう。ネポスの死後から間もなくすると、オドアケルがダルマティアを襲い、12月9日にオウィダ将軍率いる西ローマ軍を敗走させるとこの地を奪った。オドアケルはその後グリケリウスをメディオラヌム司教に任じたというが、非常に疑わしい。
- ローマ皇帝
- 473年 - 475年
-
- 先代:
- グリケリウス
- 次代:
- ロムルス・アウグストゥルス