ゾフィア・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
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ゾフィー・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(Sophie Dorothea von Braunschweig-Lüneburg, 1666年9月15日 - 1726年11月23日)は、イギリス国王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世(ゲオルク1世ルートヴィヒ)の妃。ジョージ2世(ゲオルク2世アウグスト)の母。
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[編集] 生涯
[編集] 望まぬ結婚
ゾフィーは1666年、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ゲオルク・ヴィルヘルムの娘として生まれた。1682年にハノーファー公エルンスト・アウグストの息子で従兄のゲオルク・ルートヴィヒと結婚した。しかし、この結婚にはゲオルクの母、プファルツ選帝侯女ゾフィーが強く反対していた。それは、自身との婚約を破棄した男ゲオルク・ヴィルヘルムの娘だからであった。ゾフィー・ドロテアの父は、ゾフィーとの婚約を破棄した後、ドルブロイゼ家のエレオノーレと結婚し、生まれたのがゾフィー・ドロテアであった。またゾフィー・ドロテア自身も、従兄ゲオルクの無神経さや野戦を好む所を嫌がり、泣いてこの結婚の中止を両親に訴えていた。ゾフィー・ドロテアの父と姑との過去のいきさつのため、ゾフィー・ドロテアはハノーファー宮廷に入った時から姑の敵意に晒される事となった。さらに、この宮廷を取り仕切っていたのは、義父エルンスト・アウグストと夫ゲオルクの寵姫のプラーテン伯爵夫人クラーラ・フォン・マイセンブッフであり、これもまた彼女にとっては不快な事実であった。
[編集] ジョージ1世の醜女好み
母ゾフィーが、かつては美貌の女性だったのが父に嫁いでくる前に天然痘にかかっていたせいか、ゲオルクは醜い女性達を好んで寵愛していた。このためか、ゲオルクは大変な美女であった妻のゾフィー・ドロテアには無関心だった。1683年に長男ゲオルク・アウグストが、1685年に長女ゾフィー・ドロテアが生まれても、それは変わらなかった。ゾフィー・ドロテアの不幸な結婚生活は続いた。夫はさらに、プラーテン伯爵夫人が紹介した彼女の娘ゾフィー・シャルロッテ、エーレンガルト・メルジナを寵愛していた。ゾフィー・シャルロッテは異常な肥満体で、後にイギリス国民からは「象」と呼ばれ、エーレンガルトの方はずば抜けて背が高く、こちらは「長い柱」と呼ばれるようになった女性達だった。
[編集] 愛人ケーニヒスマルク伯
1688年の3月、ハノーファー宮廷では夫妻の長女の誕生を祝う舞踏会が催された。招待客の中にはゾフィー・ドロテアの幼なじみだったケーニヒスマルク伯フィリップ・クリストフの姿もあった。彼はゾフィー・ドロテアの不幸な日常を聞くにつけ、彼女への同情が高まっていった。そして、次第に彼女に恋心を抱くようになっていった。ケーニヒスマルク伯はゾフィー・ドロテアの信頼している侍女のエレオノーレを抱き込むと、返事があろうがなかろうが関係なく、連日ゾフィー・ドロテアへの恋文を届けさせた。初めはケーニヒスマルク伯の恋文を無視していたゾフィー・ドロテアだったが、ついに1691年1月頃、彼女はケーニヒスマルク伯と愛人関係になった。ケーニヒスマルク伯との恋に夢中になったゾフィー・ドロテアは、夫に離婚を訴えたが許されなかった。
彼女とケーニヒスマルク伯爵との関係は、早くもプラーテン伯爵夫人がかぎつけ、ゲオルクの父エルンスト・アウグストにも報告されていたが、彼はこれをハノーファー公家の恥として、彼女に口外を固く禁じた。しかしそのうち、ケーニヒスマルク伯自身がザクセン公に、なりゆきから不用意にゾフィー・ドロテアとの関係を口にしてしまい、全てが発覚した。1694年7月1日、ゾフィー・ドロテアとケーニヒスマルク伯は宮殿から脱出し、駆け落ちする手筈を整えた。しかし、極秘であったはずのこの計画は、プラーテン伯爵夫人の情報網によって感づかれていた。7月1日、宮殿に忍び込もうとしたケーニヒスマルク伯は捕らえられ、何処かへ連れ去られた。その後、彼の遺体が発見された。これは夫ゲオルクによる暗殺だという説がある。
[編集] 離婚、アールデン城幽閉と死
エルンスト・アウグスト父子はゾフィー・ドロテアに手荒な措置は取れず、今まで通り、妻としての役目を果すように申し渡した。しかし彼女は「もし自分に罪があるとしたら自分はゲオルクの妻に値しないし、罪がないとしてもゲオルクは夫に値しない」と言い、夫に離婚を迫った。彼女の強硬な態度に押されて父子は離婚に応じたが、正式な手続きが済むまでという口実で、彼女を7月17日にアールデン城へ幽閉してしまった。彼女の要求通り、ハノーファー公家の祈祷書からゾフィー・ドロテアの名前は抹消され、離婚承諾書の内容が示されたが、それはゲオルクの再婚は認めても、ゾフィー・ドロテアの再婚は認めないという妙なものだった。しかし、夫のゲオルクから早く開放されたいとあせる彼女は、この奇妙な離婚承諾書にサインした。
落とし穴にはまったゾフィー・ドロテアは、これ以降23年間にわたりアールデン城に幽閉される事になった。1698年にゲオルクはハノーファー公位を継承した。1714年、アン女王の死去により、ゲオルクはイギリスに渡って、9月18日にイギリス国王ジョージ1世として即位した。一方ゾフィー・ドロテアの方は、自由の身になる事なく、1726年11月23日にアールデン城で死去した。
[編集] ジョージ1世の死、死後も続く不人気
翌1727年の6月3日にオランダで、ジョージ1世がハノーファーからの帰途を急ぐ途中の馬車の中に、突然何者かによって一通の手紙が投げ込まれた。それは1年前に死去したゾフィー・ドロテアの遺言状であった。その内容は「神の裁きの庭で私と会うがよい、断罪を受けなければならぬのは私ではなくてあなたである」と、自分を長年幽閉し続けた夫への恨みと呪詛が込められた内容であった。この遺言状に恐怖を覚えたジョージ1世は心臓発作を起こして気絶し、6月11日に死去した。
しかし、妻のゾフィー・ドロテアを幽閉したまま国王即位のためイギリスに渡り、しかもシャルロッテとエーレンガルトの寵姫2人を同伴してきたため、イギリス国民の新国王に対する感情は極めて悪く、美女と噂されていたゾフィー・ドロテアに同情が集まり、ゲオルクに対する不評は死後も改まる事がなかったという。