スペシャル・ライセンス・プレーヤー
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スペシャル・ライセンス・プレーヤーは、1986年から日本サッカー協会及び日本サッカーリーグ(JSL)によって認定された、プロフェッショナル・プレーヤーの事である。
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[編集] 概要
「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」の文言には、「プロ」若しくは「プロフェッショナル」と言う言葉は含まれておらず、文言上は協会およびリーグによって認められたライセンス所有者と言う体裁をとっている。但し実質的には「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」として日本サッカー協会に登録すればスペシャル・ライセンス・プレーヤーとして認められるものである。又、「プロ」、「プロフェッショナル」と言う言葉が含まれていなくても、実際運営されている制度はプロフェッショナル・プレーヤー以外の何者でもない。これがしばしば「実質的な」プロフェッショナル制度として言及される所以である。
1986年に日本サッカー協会及び、日本サッカーリーグは、それまでのアマチュアのみのカテゴライズを取りやめ、スペシャル・ライセンス・プレーヤー、ノン・プロフェッショナル、アマチュアの3つのカテゴリに組みなおした。この内アマチュア以外は、「アマチュア規定」外にあるものであり、実質的にお金を受け取ってプレーしている事を自他共に認めている選手と言う事になる。なお、スペシャル・ライセンス・プレーヤーとノン・プロフェッショナルとの差は前者がサッカー以外の広告宣伝活動による報酬を受けることが認められている点のみであり、サッカー選手としての活動に差はない。
この制度は1年で廃止され、新たにライセンス・プレーヤーとして72人が登録された。この後、1990年に日本サッカー協会の選手登録規定が変更によりアマチュアとアマチュア以外の選手(ノン・アマチュア)に改められ、1992年のJリーグ発足時にプロフェッショナル契約が導入されるまで存続した。
[編集] 経緯
1965年に実質的には実業団リーグとして発足した日本サッカーリーグは純然としたアマチュアでのリーグ運営を標榜していたが、その初期から各企業が選手に対する待遇の改善に取り組んだ結果、純然としたアマチュアとは言えないものに成長していった。
選手は、あくまでも会社に籍を置き、その余暇を部活動に当てるという建前は保っていたものの、就業後の練習には残業手当として、試合での勝利に対しては賞与によるなどして、さまざまな名目により何らかのボーナスを得ていた。この他にも、日本代表に選出された選手・監督に対しても特別な手当てが別個支払われていた。このような形態を企業アマといい、この形態は国際サッカー連盟(FIFA)が定めるアマチュア規定には含まれるものではなかった。
特に、1969年に発足した読売サッカークラブに所属する選手は、本来籍を置くべき会社と言うものすら持っておらず、純粋にサッカーをする事によって俸給を得ていた。これは完全にプロフェッショナルである。
1980年代に入って、リーグの抜本的な改革に迫られた日本サッカーリーグは、こうした状況を追認する形で、プロフェッショナル制度の導入を画策した。但しこれには障害があり、リーグの上位団体となる日本サッカー協会は日本体育協会に加入していたが、日本体育協会は純粋なアマチュアプレーヤーの協会を標榜しており、プロフェッショナルプレーヤーを認めた場合、日本体育協会から追放される恐れがあった。
日本体育協会から追放された場合、国民体育大会からサッカー競技が除外されるため、日本サッカー協会及び日本サッカーリーグはプロフェッショナルプレーヤーの導入に慎重にならざるを得なかった。但しこれには前例があった。国際トーナメントのオープン化により選手のプロ化に迫られ、1974年にプレーヤーズ制度を導入した日本テニス協会の例である。
結果として、テニス協会と同様、おおぴろげに「プロ」と言う言葉さえ用いなければ、日本体育協会としても日本サッカー協会、日本サッカーリーグの訴えを認めるという形で承認を受け、1986年/87年シーズンから「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」と言う名称でプロフェッショナルプレーヤーのカテゴリが導入された。
[編集] 導入
1986-87年シーズンから導入されたスペシャル・ライセンス・プレーヤーで登録を行ったのは、この年、西ドイツのヴェルダー・ブレーメンから古巣である古河電気工業サッカー部に復帰した奥寺康彦と、日産自動車サッカー部に所属の木村和司2人のみであった。加えてこのシーズンの二人の活躍が思わしくなく、スペシャル・ライセンス・プレーヤーに対する評価は芳しいものでは無かった。
リーグ全体を見た導入状況では、外国籍選手を除くと奥寺・木村の在籍する古河・日産の他にも読売・フジタ・ヤマハはほぼ全選手がノン・プロフェッショナルとして登録した。その一方で日本鋼管・本田・松下・マツダは全選手がアマチュアとして登録していた(同じく外国籍選手を除く)。
しかしながら、最後の日本リーグとなった1991/92シーズン開始時には前述の各チームもすべての選手をノン・アマチュアとして登録するなど、1部所属チームではマツダに数名のアマチュア登録選手がいた以外はすべてノン・アマチュア登録選手であった。また2部でも16チーム中6チームがすべての選手をノン・アマチュア登録した(ちなみに読売ジュニオール所属選手は外国籍選手を除きすべてアマチュア登録で、トップチームである読売クラブとは差別化がはかられている)。
[編集] スペシャル
「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」で用いられた「スペシャル」と言う言葉は、日本サッカー協会が、後にプロフェッショナルな制度を用いる際によく使われる言葉になった。現行のJリーグの構想段階での名称は「スペシャルリーグ」が用いられた。また審判のプロ化の際に用いられた「スペシャル・レフリー」における「スペシャル」も、この「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」に端を発している。
[編集] 関連項目
- プレーヤーズ制度
[編集] 参考図書
- 平塚晶人『空っぽのスタジアムからの挑戦-日本サッカーをメジャーにした男たち-』2002年 ISBN 4093664811