シャルロッテ (メキシコ皇后)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シャルロッテ(Marie Charlotte Amélie Augustine Victoire Clémentine Léopoldine, 1840年6月7日 - 1927年1月19日)は、ベルギー国王レオポルド1世の娘、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟でメキシコ皇帝となるマクシミリアン大公の妃、メキシコ皇后。母はフランス国王ルイ・フィリップの娘ルイーズ・マリー・テレーズ・シャルロット・イザベル・ドルレアン。
目次 |
[編集] マクシミリアンとの結婚
[編集] 娘時代
シャルロッテは、初代ベルギー王となったレオポルドの第3子として生まれた。シャルロッテが8歳の時、二月革命により祖父ルイ・フィリップ王が退位し、イギリスに亡命する。しかしシャルロッテには、フランスから追放された祖父に同情するというより、むしろ王位を守る事ができなかった祖父のふがいなさに対する怒りのようなものがあった。シャルロッテは理知的で賢く、意志が強く、また父レオポルドから野心的な性格を受け継いでいた。レオポルドは子供達の中で最も自分に似た娘を溺愛した。1850年、シャルロッテが10歳の時に母ルイーズが死ぬと、レオポルドは一層娘を可愛がった。父親の愛情を一身に受けて、シャルロッテは誇り高い王女へと成長していった。ある人によると「愛情より尊敬の念を起こさせる女性だった」という。
[編集] 結婚
1856年、シャルロッテが16歳の時、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟フェルディナント・ヨーゼフ・マクシミリアン大公がベルギーを訪れた。マクシミリアンは陽気で夢想的で親しみやすい人柄で、マクシミリアンとシャルロッテはお互いに好意を抱いた。やがて2人の間に結婚話が持ち上がる。父のレオポルドも「老獪な外交官」と呼ばれたその冷静な頭脳から、新興のベルギー王家がヨーロッパ随一の名家として伝統と格式があり、強大な勢力を誇るハプスブルク家の大公と縁組するのは悪い事ではないという結論に至り、賛成した。1857年7月27日、マクシミリアンとシャルロッテの結婚式がブリュッセルで行なわれた。
[編集] ロンバルディア=ヴェネツィア王国
[編集] イタリア統一運動と反ハプスブルク支配
レオポルドはマクシミリアンのために、フランツ・ヨーゼフに対して猟官運動を繰り広げた。その甲斐あってか、1857年2月にマクシミリアンはロンバルディア=ヴェネツィア総督に任命された。新婚旅行の後、シャルロッテは夫とともに任地ミラノヘと向かった。
しかし、当時のイタリアはイタリア統一(リソルジメント)運動などが起きており、イタリアのハプスブルク家支配に対する反感が高まっている時であった。マクシミリアンは宥和政策をとり、彼とシャルロッテはリベラルな総督夫妻として市民達の人気を集めるようになる。市民達とは違い、イタリア貴族・知識階級はマクシミリアンに反感を抱いていたが、マクシミリアンの大規模な教育改革に協力を申し出る歴史学の泰斗チェーザレ・カントゥや、マクシミリアンが経済の活性化を狙い、ミラノに新たな信用機関の創設や鉄道網の整備をするのに協力した、経済界の重鎮ステファーノ・ヤッキーニなどの協力者達も徐々に現れ始めていった。
サルデーニャ王国首相カヴールはこれに強い危機感を抱いたが、結局マクシミリアンが行なったこれら数々の改革は、兄のフランツ・ヨーゼフからロンバルディア=ヴェネツィア王国の事実上の自治権の保証を取り付けない限り、実行は到底不可能な事であった。しかし、フランツ・ヨーゼフを初めとしてウィーン政府は、あくまで中央集権主義を守る考えであり、ロンバルディア=ヴェネツィア王国に自治権を与えるなどとんでもない事だと、マクシミリアンの要求を退けた。そしてフランツ・ヨーゼフは1859年4月19日にマクシミリアンを総督から解任し、全権をフランツ・ギウレイ伯爵に委ねてしまった。レオポルドは、無役同然の身となったマクシミリアンに新しい役職を与えてくれるよう、フランツ・ヨーゼフに働きかけたが、フランツ・ヨーゼフは国内の内政の問題だからとはねつけた。マクシミリアンとフランツ・ヨーゼフの間は亀裂は深まっていった。マクシミリアンはトリエステのミラマール城の建築に勢力を注ぎ、シャルロッテも夫と共に海を眺めたり、絵を描いたりして過ごすしかなくなってしまった。
[編集] 皇后と大公妃の不仲
これを心配した兄弟の母ゾフィーは、オーストリアの保養地バート・イシュルにフランツ・ヨーゼフと皇后エリーザベト、マクシミリアンとシャルロッテの2組の夫婦を招き、兄弟の結束を図った。しかし兄弟仲は改善されず、2人の妻エリーザベトとシャルロッテも初対面から気が合わず、たちまち険悪な雰囲気になってしまった。エリーザベトはマクシミリアンとは親しかったが、シャルロッテが賢しらで、夫のマクシミリアンを操縦しようとしているような感じが気に入らず、彼女を徹底的に無視した。一方シャルロッテは、自分はベルギー王女だという自負心があり、バイエルン公女であるエリーザベトがオーストリア皇后だというのが納得がいかなかった。彼女達の対立が激しくなったのは、ゾフィーが盛んにシャルロッテの美しさと行儀の良さをほめた事も一因になったと言われている。また、シャルロッテの愛犬の小型犬が、エリーザベトの愛犬で「シャドー」という猟犬に噛み殺されてしまうという事も起こった。その後、冷たい空気が2人の間に流れ、エリーザベトは一言「私、小型犬は嫌いなので……」と言ったという。(イギリスのヴィクトリア女王からもらいうけた犬のため、ヴィクトリア女王の名誉のため謝ることができなかった。)シャルロッテとエリーザベトは不仲のままだった。
[編集] メキシコへの旅立ち
[編集] ナポレオン3世の野望
1861年7月5日、オーストリア外相レッヒベルクに、フランス駐在大使リヒャルト・メッテルニヒからナポレオン3世の提案が知らされた。ナポレオン3世は、メキシコにフランスの勢力を及ぼし、マクシミリアンを傀儡皇帝にしようと目論んだのである。これにはナポレオン3世だけでなく皇后ウジェニーも深く関わっていた。彼女は1859年、夫によって私的評議会のメンバーに任命されており、政治的発言力は大きく、度々フランスの政治にも介入した。彼女はメキシコの亡命外交官ホセ・イダルゴから、メキシコをカトリックの大帝国にする計画を聞かされ、乗り気になった。そしてイダルゴに引き合わされたナポレオン3世も賛成した。
フランツ・ヨーゼフも、この話はマクシミリアンを厄介払いする良い機会だと思い、提案に関心を示した。メキシコ皇帝なら、マクシミリアンの野心や虚栄心も満足させられ、好都合だと思ったのである。この頃、マクシミリアンの城にはヴェネツィアのナショナリスト、自由主義の政治家、外国の新聞の特派員などが出入りしており、マクシミリアンはその自由主義的な考えから、公然と兄フランツ・ヨーゼフの政策について激しく批判するようになっていた。しかも外国の新聞には、イギリス外相の提案と銘打って、ハンガリー王国を独立させ、マクシミリアンを国王にしたらどうかという記事が載った。加えてマクシミリアンは、ウィーン市民に人気が高かった。フランツ・ヨーゼフにとって、マクシミリアンは頭痛の種となっていたのだ。
[編集] メキシコ皇帝即位交渉
フランツ・ヨーゼフは10月10日、レッヒベルク伯爵を使者としてミラマール城に送り、マクシミリアンにフランス政府の提案を正式に伝えた。マクシミリアンとシャルロッテはこの話に大喜びした。レオポルドも娘シャルロッテ可愛さに、この破天荒な計画に賛成した。マクシミリアンはメキシコ皇帝即位に当たって2つの条件を出した。1つはフランス・イギリス・スペインの一致した支援である。これはレオポルドの入れ知恵だったと言われる。イギリスとスペインは支援を断ったが、フランスとは、
- フランス軍は3年間メキシコに駐留した後、段階的に撤退する。
- 3万8千の兵のうち2万人は1867年まで滞在する。
- フランス軍指揮下にある8千の外人部隊は、さらに6年間マクシミリアンに仕える。
という条件を何とか取り付けた。
フランツ・ヨーゼフも、メキシコ皇帝即位の準備費用として、帝室費から20万グルデンを貸し与えた。この債務の返済は、マクシミリアンがメキシコ皇帝に即位した後、マクシミリアンがオーストリア大公として受け取るはずの歳費をもって相殺し、同時にこの歳費からまだ未払いのミラマール城建造の支払をすることとした。また、メキシコへの航海にはオーストリア海軍の軍艦を使用する事も許し、オーストリアでの義勇軍募集の許可を与えた。ただし、オーストリア帝位継承権は放棄するという条件も出した。マクシミリアンは初めはこの継承権放棄に抵抗を示したが、結局承諾した。
[編集] ヨーロッパからメキシコへ
1864年3月、マクシミリアンはベルギーでレオポルドに、メキシコへベルギー義勇軍を派遣してもらう約束を取り付けた。次いでフランスへ向かい、フランス政府と最後の打ち合わせを行なった。その後、イギリスで亡命生活を送っていたシャルロッテの祖母マリー・アメリーを訪ねた。しかし、彼女はメキシコに向かうために暇乞いをしたマクシミリアンに向かって「あなたがたは結局は身を滅ぼす事になるでしょう」と不吉な予言めいた事を言った。マクシミリアンのメキシコ行きにはゾフィーとエリーザベトも反対した。この頃、既にゾフィーはシャルロッテを寵愛する気が失せていたという。ゾフィーもエリーザベトも、シャルロッテがマクシミリアンを変えてしまったと思っていたのである。楽観的な見通しを持っていたのはフランツ・ヨーゼフだけだった。1864年5月28日、マクシミリアンとシャルロッテを乗せたノヴァラ号は、メキシコ第1の港ベラクルスに着いた。メキシコ皇帝と皇后になったマクシミリアンとシャルロッテは、やがて理想と現実との違いに愕然とする事になる。
[編集] メキシコ帝国の崩壊
[編集] レフォルマ戦争
メキシコでは、根強い抵抗を続けるベニート・フアレス率いる自由主義派のゲリラと、フランス軍の激戦が日夜繰り広げられていた(レフォルマ戦争)。メキシコの教会保守派と大規模農園主は広大な土地を有し、メキシコの先住民を酷使していた。マクシミリアンは先住民の待遇改善をしようとするが、これは保守派によって拒否されてしまう。また、マクシミリアンが組閣した内閣の閣僚達もそれぞれ反目しあい、協調する事ができなかった。その上パゼーヌ将軍らフランス軍は、マクシミリアンをメキシコに何の基盤も持たない傀儡皇帝として軽んじていた。マクシミリアンは8月と9月に国内巡幸に出た。彼が首都のメキシコ・シティを留守にしている間、シャルロッテは摂政に任命され、政府の閣僚達も驚くほどの見事な行政手腕を発揮した。彼女の行政手腕は、父のレオポルド以上とも、マクシミリアンを凌ぐほどのものであったともいう。しかし夫が帰還すると、彼女は直ちに摂政職から退いて慈善活動に励むようになった。
だが彼女の働きも虚しく、メキシコ情勢は悪化していくばかりであった。1865年の初頭、オーストリア義勇軍約8千・ベルギー義勇軍約2千がメキシコに到着した。しかしオーストリアとベルギーの義勇軍も「兵力の数が多ければ、兵士達は飢えに苦しみ、少なければ、大地が彼らを飲み込んでしまう」という状態で、フランス軍同様ゲリラに苦しめられる事となった。1865年の4月にフランス・メキシコ・オーストリア・ベルギーの混成軍は、「タカンバロの破局」と言われるほどの大敗を喫した。9月14日、マクシミリアンとシャルロッテは子供に恵まれなかったため、メキシコ第一帝政の皇帝アウグスティン・イトゥルビデの孫息子アウグスティン・イトゥルビデを養子に迎え、皇太子にした。
[編集] 父王レオポルドの死
1866年1月6日、離宮クエルナバカに滞在していたマクシミリアン夫妻に衝撃的な知らせがもたらされた。シャルロッテの父レオポルドが前年の12月10日に死去したというのである。2人は悲しんだが、娘のシャルロッテよりもマクシミリアンの嘆きの方が勝っていたという。シャルロッテの方は夫より冷静で、首都で自発的に半旗が掲げられ、国民達が皇帝夫妻に哀悼の意を表している様子を見て「国民の哀しみは全く自然発生的であります。ヨーロッパ中のどんな王室でも私達ほど国民に愛されている君主夫妻はいないでしょう」と手紙を書いている。
シャルロッテの兄がレオポルド2世として即位すると、すぐにメキシコに派遣されていた義勇軍を撤退させてしまった。レオポルド2世は、マクシミリアンのメキシコ帝国建設など全くばかげており、それに協力する父王の行動も同じくばかげた事だと思っていたのだった。また、これには依然としてフアレスのゲリラ勢力を支援しているアメリカとの関係改善も含まれていた。
[編集] フランスの裏切り
ナポレオン3世もまた南北戦争を終結させたアメリカを恐れ、1865年10月に、メキシコのフランス軍を即時に撤退させる代わりにメキシコ皇帝政府を承認するようアメリカ政府に持ちかけた。しかし、アメリカ政府はそれを拒否した上、同年の12月にアメリカの国務長官スワードは、フランス政府にメキシコのフランス軍即時撤退を要求し、フランスが要求を拒否すればアメリカ軍のメキシコ侵攻も辞さないという強硬な姿勢を示した。これを受けてナポレオン3世は1866年1月22日、フランス上院で「メキシコ国民の総意によって創設された皇帝政府は、ついに独立を成し遂げたのであります」と、事実上のフランス軍撤退宣言をしたのである。これにはマクシミリアンも激怒した。
皇帝直属官房長官のエロワンは、マクシミリアンの命を受けてレオポルド2世に引き続き軍事的援助を要請したが、これはにべもなく断られた。マクシミリアンは続いてオーストリアにボンベルス伯爵を派遣し、早急に第2、第3の義勇軍を派遣して欲しいと要請させた。しかしこの頃、オーストリアもプロイセンとの開戦も間近という緊迫した情勢にあり、アメリカと敵対する事を恐れ、とてもマクシミリアンのメキシコ皇帝政府を援助する余裕はなく、この要請を断った。
[編集] 普墺戦争と支援要請
1866年7月6日早朝、ヨーロッパからマクシミリアン達の許に、6月15日に普墺戦争が勃発した事を伝える手紙が届いた。マクシミリアンは、これで完全に自分がヨーロッパから見捨てられた事を知った。マクシミリアンはメキシコ皇帝政府次官を務めるフランス陸軍大尉フランセ・ドトゥロワヤの忠告もあり、退位を決意した。しかし、これを知ったシャルロッテは凄まじい剣幕で猛反対した。彼女は、退位ほど不名誉で恥ずかしい事はないと思っていたのだった。シャルロッテはマクシミリアンの名代として、ナポレオン3世とローマ教皇ピウス9世に支援を求めるため、1866年6月9日にメキシコを発った。
しかし、シャルロッテの要請はナポレオン3世にもピウス9世にも断られ、彼女は絶望のあまり発狂した。ベルギーから迎えがやってきて、シャルロッテは祖国に連れ帰られた。1866年3月15日にはフランス軍のメキシコ完全撤退が終了し、実母の要求で養子アウグスティンはアメリカに帰された。
[編集] マクシミリアンの銃殺とシャルロッテの狂死
12月3日、シャルロッテが狂気に陥っていた頃、ようやくマクシミリアンは念願であった自らの軍隊メキシコ国軍を創設した。それから1867年の4月まで、メキシコ国軍はその総数にも関わらず驚異的な善戦を続けるがついに敗れ、5月にマクシミリアンはフアレスの自由主義派に逮捕された。そして6月19日、フアレスの命令によりミラモン・メヒアら2人の将軍達と共にケレタロで銃殺刑に処された。
一方、シャルロッテは夫の死も知らないまま、1927年1月19日、正気に戻ることなく亡くなった。
[編集] シャルロットの手紙
[編集] 教育係への手紙
普墺戦争直前の厳しい情勢にあって、シャルロッテはかつての教育係に宛てて次のような手紙を送った。
- どうか、私の立場に身をお置きになって、こう自問なさって下さい。ミラマールでの生活の方が、ここメキシコでの生活よりずっと良かっただろうか、と。違います、違います、断じて違います。私としてはただ70歳になるまで、ただ岸壁から海を眺めて暮らすような、だらだらとした生活よりも、例えどんなに苦しくとも、義務と責任が伴う充実した活動的な人生を選びます。私は怠惰な生活を捨ててきた代わりに、充実した生活を手に入れました。この2つの生活をよく見比べて下さい。そして、私がメキシコで幸せに暮らしているとお聞きになっても、決して怪しまないで下さい。
これは、かつての無為な生活よりも、どんなに辛くとも現在のメキシコでの生活の方が、はるかに意義ある充実した生活であるとの彼女の考えを表わしている。
[編集] マクシミリアンへの手紙
シャルロッテはヨーロッパへ旅立つ前、マクシミリアンに次のような長い手紙を書いた。
- フランスのシャルル10世、それに私自身の祖父(ルイ・フィリップ)は、自ら退位したばかりに自滅の道を歩みました。この悲劇を決して繰り返してはなりません。退位するという事は、すなわち自らを有罪であると認める事であり、自らの無能さを世に晒す事であります。こんな事は老醜を曝け出すもの、あるいは間抜けな人間にこそふさわしきものであり、ちょうど男盛りの花も実もある34歳の陛下がお採りになるべき道では決してございません。
- 主権とはこの世の中の最も神聖なる財産であり、玉座とは警察隊に包囲された集会から逃げ出すようにして捨て去るものでは決してありません。一旦、一国民の運命を我が手に引き受けたからには、全て自らの責任で事に当たらなければなりません。もはやその国民を捨てる自由などはないのです。退位というものが過ち以外の、あるいは怯えの産物以外の何物かであるような場合など、私にはとても想像できません。かつてルイ太陽王はある戦いの最中、自分を捕らえようとしたイギリス人にこうおっしゃいました。『我が友よ、王たるもの、例え敗れようとも捕らわれの身となるわけにはいかぬのだ』と。そうですとも、皇帝たるもの、けっして縛に着いてはならないのです。皇帝がおります限り帝国は存在するのです。例え6フィート足らずの領地しか残っていないとしてもです。皇帝にお金がないという事は何ら納得すべき口実にはなりません。お金がなければ信用で調達なさいませ、信用は勝利で得られます。そして勝利とは勝ち取るものでございます。
- 例え信用、勝利に恵まれなくとも、何とか切り抜ける事ができるのです。生きて生き抜き、自分自身に絶望しなければよろしいのです。一旦、我が身に引き受け、可能であると見なした事について、後になってからやっぱり駄目だったと言うようでは、誰からも信用されない事でしょう。国民の幸せを願い、そのためには自分が邪魔になると思えばこそ引くのだとのおっしゃりようは、まさしく自分の顔を自分で殴りつけるのと変わりありません。これ以上の虚偽があるでしょうか。メキシコ国民にとって、ご自分が未来永劫にわたって唯一の救いであるのですから。
- 結論はこうです。つまり、帝政はメキシコを救う唯一の手段であります。全てはメキシコを救うために行なわれなければなりません。誓いとお言葉によってその義務が課せられたのです。そこからお逃げになる事は一切叶いません。事態は以前と同様に突破できるのです。ですから帝政は何としても維持されなければなりません。必要とあらば、これに邪魔立てするあらゆるものに敢然と立ち向かわねばなりません。敵前でご自分の部署をお捨てにならないお方が、何ゆえ玉座をお捨てになるのでしょう?
- 中世の王達は、自分の国を引き渡す前に、少なくとも敵が国を奪いにやってくるまで持ち堪えようとしました。退位などという考えは、君主達がかつての苦難の日々、馬で駆け巡っていた事をすっかり忘れてしまってから生まれた考えなのでございます。我が国においては内戦というものはもはや存在いたしません。なぜならフアレスの任期はとうに切れているからです。こんな敵にどうして席を譲らなければならないのでしょうか。
これは彼女の壮絶な決意を示しているといえよう。
[編集] 関連項目
- ベルギー
- オーストリア・ハンガリー帝国
- フランス第二帝政
- レオポルド1世 (ベルギー王)
- フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)
- マクシミリアン (メキシコ皇帝)
- ナポレオン3世 (フランス皇帝)
- ウジェニー (フランス皇后)
- レフォルマ戦争
- メキシコの歴史
- メキシコ帝国
[編集] 参考文献
- 菊地良生『イカロスの失墜 悲劇のメキシコ皇帝マクシミリアン1世伝』新人物往来社、1994年、302頁。
- ブリギッテ・ハーマン『エリーザベト 美しき皇妃の伝説』上、中村康之訳、朝日新聞社、2001年、344頁。
- ジャン・デ・カール『中公文庫 麗しの皇妃エリザベト』中央公論新社、1990年、584頁。