スコットランド独立戦争
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スコットランド独立戦争(すこっとらんどどくりつせんそう、Wars of Scottish Independence)とは、13世紀-14世紀に起こったスコットランド独立のための対イングランド戦争である。
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[編集] アサル王家の終焉
1214年に16歳で王位についたアレグザンダー2世は、イングランド王ヘンリー3世の妹と結婚し、1236年にはヨーク条約を結んで、イングランドとの国境を確定した。1249年、ノルウェーからのヘブリディーズ諸島の奪還を目指して進軍中に死去した。8歳のアレグザンダー3世が跡を継いだ。
1255年、アレグザンダー3世は親政に乗り出し、摂政のジョン・ベイリャルらを追放した。また、イングランドの内紛には中立を保ち、内政の安定を保った。そうして、兼ねてからの懸案だったノルウェー軍の駆逐に乗り出すことになった。
1261年にヘブリディーズ諸島の奪還に成功し、1263年には西部のクライド湾でノルウェー王ホーコン4世をうち破った。3年後のノルウェーとの平和条約で、ヘブリディーズ諸島は正式にスコットランド領となった。1286年、アレグザンダー3世は、嫡子のいないまま、この世を去った。
長老・重臣たちが次の王として選んだのは、ノルウェー王エイリーク2世に嫁いでいた、アレグザンダー3世の長女マーガレットの娘マルグレーテであった。3歳の彼女はスコットランド初の女王マーガレットとして即位したが、ノルウェーの王宮にとどまったままだった。
スコットランド併合の野心を持つイングランド王エドワード1世は三男で皇太子のエドワード(後のエドワード2世)とマーガレットとの結婚を強要した。1289年に結婚のため、ノルウェーを発ったマーガレットたちの船は途中大時化にあい、9月26日にオークニ島にたどり着いたところでマーガレットは息を引き取った。わずか7歳であった。そして、これはアサル王家の終焉を意味した。
[編集] 王位継承者たちの争いとイングランドによる統治
アサル王家が絶えてから、13人の王位継承者たちの争いが始まった。スコットランドへの介入をねらっていたエドワード1世は、1291年5月に両国国境近くのノーラムで王位継承者・領主たちを集め、ジョン・ベイリャルの王位継承に同意するよう迫った。エドワード1世にとって、ジョン・ベイリャルは御しやすい人物と思われたからであった。翌1292年11月17日、ベリクで再びエドワード1世による裁定が行われ、正式にジョン・ベイリャルが王位についた。このとき、イングランドに対して屈辱的な臣従を誓わされた。
ジョン・ベイリャルはしばらくの間、エドワード1世の様々な要求に従っていたが、1294年にフランスへの兵員動員を拒否し、フランス王フィリップ4世と同盟(いわゆる古い同盟)を結んだ。1296年4月、ジョン・ベイリャルはイングランドへの臣従の拒否を宣言し、イングランド北部へ侵攻した。しかし、このときを待っていたエドワード1世にダンバーで大敗した。ジョン・ベイリャルは一旦は逃れたものの、10月にストロカスロで降伏して、王冠を捨てた。ジョンは長男のエドワードとともにロンドンへ送られ、3年間幽閉された。エドワード1世は、「スクーンの石」を奪い、スコットランドは総督ジョン・ド・ワーレンをおいて統治することにした。この後、スコットランドの王座は1306年までの10年間、空位となった。
1297年5月、イングランド兵とのトラブルに巻き込まれたウィリアム・ウォレスは、イングランド人の州長官を殺害。民衆は、彼を支持して、大反乱となった。9月には、ウォレス軍は、スターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍を徹底的に破った。しかし、1298年のフォールカークの戦いでイングランド軍に大敗。ウォレスは、その後7年間にわたってゲリラ戦を行ってイングランドに抵抗したが、1305年に捕らえられ八つ裂きの刑に処せられた。彼は、愛国者としてたたえられている。
[編集] イングランドからの独立
ウォリス以外にもイングランドに抵抗するものが続々と現れたが、彼らには連携が欠けていた。その中の一人が、マーガレット女王死後の王位継承に名乗りを上げた13人のうちの一人の孫、ロバート・ド・ブルース(ロバート1世)であった。彼は、ウィリアム・ウォレスに協力しなかったばかりか、1306年2月に別の反乱軍の首領でライバルのジョン・カミンを教会内で殺害し、教皇クレメンス5世に破門される始末であった。
ロバートは、同年3月25日に戴冠式を強行し王位についたが、6月26日には討伐軍を起こしたエドワード1世に大敗し、主な協力者は処刑され、ロバート自身もノルウェーにまで逃れた。1年後の1307年3月、ロバートの右腕ジェームズ・ダグラスがダグラス城を攻撃してイングランド軍を破ってから、各地で連勝を重ねていった。
エドワード1世は病をおして出陣したが、カーライル近くで死去した。後継者のエドワード2世は進軍を中止してロンドンに戻り、軍事は部下に任せきりであった。また、重臣たちも二派に分かれて抗争する有様だった。こうした中、ロバート軍は各地でイングランド軍を破り、勢力圏を広めていった。1314年6月、ようやく自ら大軍を率いたエドワード2世だが、バノックバーンでロバート軍に大敗した。1318年には、すべてのイングランド兵がスコットランドから駆逐された。1323年には、教皇ヨハネス22世はロバート1世の破門を解き、スコットランド王として承認した。
イングランド王エドワード3世の母イザベルの申し入れで、1328年に彼女の次女ジョアンとロバートの長男デイヴィッド(後のデイヴィッド2世)との結婚が行われ、両国の平和条約が結ばれた。その翌年、ロバート1世はカードゥロスで亡くなった。
[編集] デイヴィッド2世とエドワード・ベイリャル
ロバート1世の死後、長男デイヴィッドがデイヴィッド2世として、わずか5歳で王位を継承した。これに対し親イングランドの貴族たちは、1332年8月にジョン・ベイリャルの長男エドワードを担いで反乱を起こした。イングランド王エドワード3世の支援を受けた反乱軍は、スコットランド王軍をダップリング・ムアで破り、エドワード・ベイリャルがスコットランド王として戴冠した。
エドワード3世の後押しで王座についたエドワードは、イングランド王に臣従を誓い、南部諸州を割譲した。これに怒ったジェームズ・ダグラスの弟アーチボルト・ダグラスは、12月反乱を起こし、アナンでエドワード・ベイリャルを破った。エドワード・ベイリャルは、イングランドに逃走した。しかし、翌年にはアーチボルトは、ハリダン・ヒルでエドワード3世に敗れ、戦死した。これを見たデイヴィッド2世は、翌1334年に王妃とともにフランスに逃れた。こうして、スコットランドには、デイヴィッドとエドワードという2人の王がいるにもかかわらず、国内には王が不在という異常な事態となった。王が不在の間、ロバート・ステュアートが摂政として王国を守ることになった。
1337年、イングランドとフランスの間に百年戦争が起こった。フランス王フィリップ6世は、イングランドを北から牽制する目的でデイヴィッド2世のスコットランド帰国を後押しした。1341年帰国したデイヴィッド2世は、フィリップ2世の要請に応えて、1346年10月、イングランド侵攻の軍を起こした。しかし、ネヴィルズ・クロスで大敗し、デイヴィッド2世は囚われの身となってしまった。再びロバート・ステュアートが摂政となった。
エドワード3世は、エドワード・ベイリャルより彼の年金と引き替えにスコットランドの割譲させる一方で、デイヴィッド2世には以後の王位をエドワード3世またはその嗣子に限るという約束を取り付けようとした。しかし、スコットランド国内では、これに反発し、結局は10万マークを10年の分割払いという身代金で、1357年10月にデイヴィッド2世は釈放された。しかし、デイヴィッドはイングランドのでの生活を懐かしがり、1367年にロンドンに帰り、スコットランド王位をエドワード3世に継承する約束に応じた。これに対して、スコットランド議会は身代金を払い続けることで対抗した。しかし、度重なる侵攻と内乱、身代金支払いのための重税、加えて1349年からペストが蔓延して、スコットランドは疲弊の極にあった。こうした中、跡継ぎのないまま、1371年にデイヴィッド2世は死去した。エドワード・ベイリャルも独身のまま死去しており、二つの王家が幕を閉じることになった。
カテゴリ: スコットランドの歴史 | 独立戦争